基本読書

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真木悠介『時間の比較社会学 (岩波現代文庫)』

普段僕らは時間に対してもっと有意義に過ごせるのではないかと思い、時間が過ぎ去っていくのをみながら何もしなかったことを後悔し、さらには自分が死んだ後もずっと世界は進んでいくのだと想像して、自分の人生が広い大海のほんの一部分でしかない、自分が存在している意味なんてほとんどないことに気がついて絶望したりする。

こうした絶望、心理的圧迫の要因は1.無限に広がりを持つ時間間隔。2.不可逆性としての時間認識 の二つになるだろう。自分が死んでも未来はずっと続いていくし……失った時間は取り戻せない上に歴史を積み重ねれば積み重ねるほど自分の生きた意味などなくなっていく。人生はみじかく、はかない。どちらも現代に生きる僕らからすれば当たり前の感覚だ。

しかしそれが普遍的な感覚だとおもいきや、ひとつの主観的な時間間隔に過ぎないのではないかというのが本書の主張だ。

考えてみれば時間を計るなどと言うが、時間には実質的な物はなにもないわけであって、ただ等間隔でリズムを刻む針があるだけだ。過去・現在・未来の区分も時間は一直線に流れるとした世界観の現れに過ぎない。ましてや本来存在していない、自分とまったく関わりあいのない100年後や200年後を想像する事は、原始的な共同体にあっては限りなく無駄に思われるだろう。

たとえば狩猟を主とする原始共同体であれば必要な時間とは、一日のうち時間を明確に区切る必要性なんて無い。牛が鳴きはじめたらご飯を食べて、それが終わったら狩りにいって、暗くなったら帰って。今が乾期か雨期か、何が狩れる時期なのかぐらいは把握しているはずだが、一年が365日で一ヶ月が30日である必要はない。389日でもいいし、一ヶ月は20日でも25日でもいい。

だから彼らにとっての「時間」とは「牛がないた時」「日が落ちた時」などの、具体的な状況だけでいいのである。その感覚にはずっと昔、過去という概念や、10年後の未来などといった概念はない。ただ「牛がなけば」狩りに行き、「日が落ちれば」家に帰ってくる。それだけである。

客観的な時間尺度が必要になってくるのは異質な人たちが同時に動かなければいけない時だ。大勢の人間が一同にかいして仕事をしなければいけない時、じゃあ牛がなきはじめたら、あるいは空が明るくなったら集合といっても始まらないわけで。時間とは異質な世界、時間リズムを持つ人達を束ねるひとつのツールであるといえる。

僕たちは時間を測りそれが過ぎ去っていくことを当たり前のように語るが、それは当たり前ではないのだ。時間という具体的なものはどこにもない。創りあげてきたものだった。そして時間を創りだしたことで多くのことが可能になった。たとえば「数年先の未来」という概念を生み出したことで、長い改革に取り組めるようになるのである。

客観的な時間は多くのものをもたらしたし、こんな快適な暮らしは時間概念がなかったら不可能なのは言うまでもない。しかし一方で代償もある。たとえば、共同性を喪失させた。月がのぼればアフリカが踊ると言われたように、かつては月がのぼっただけでアフリカ中が踊った。近代化された人たちは月などあまり見ない。時間をみて、自分の行動を決める。そうした形で共同性は失われていく。

さらに賃金労働制によって時間は金になった。稼いだり、蓄えたり、節約することが出来ると考えられるように成った。いわば貨幣、交換のシステムの中に時間が組み込まれてしまった。現代人がゲームをしている時などに時間を無駄にしている感覚を覚えてしまうのは、主観的な時間間隔からきているといえる。

無限に広がっていく時間感覚を持ってしまったがために、「自分が死んだ後も世界は何事もなく進み続けるし、自分の生きた証など何も残らない」という虚無を感じ、だからこそ有限の人生は虚しいと感じ死を過剰なまでに恐れる。

ある種の精神病者の場合、無限にひろがる宇宙空間の1点に存在する自分を意識し、実感的な恐怖とむなしさを感じることがあるというが、時間の中に存在する近代的自我はまさにそうした状況にあるといっていい。

無限に広がる時間、そのほんの一瞬しか生きられない自分。当然無限に広がる宇宙空間の1点にしか存在しないことも同様であり、それは紛れもなく正しい感覚といえるのだが普通はみな鈍感に出来ているために、強く意識したりはしない。そうなると鋭敏な感覚を持つ人を精神病者と呼び、病気を「治す」といっていいものかどうか。「鈍感にして気づかなくさせる」が正しいのではないか。

話がそれた。まあ近代人は線上に真っ直ぐ並んで自分が死んだ後も、過去も無限に伸びている時間軸があるんだ! って気づいて、しかも賃金労働や日々の生活を管理するタイムスケジュールは常に「未来の先取り」であってつまり未来がないと生きている意味が無い、と思わせられる。学校の勉強も資格の勉強も就職活動もすべて「未来の為」に現在を犠牲にする行為でありこれはまったく合理的なのだがその代わりに「せっかくがんばったのに未来が来ない=死」を何よりも恐れる。

そんな時代に生きているのだから解決策をよこせ! と思うのだが、最後二つの章でこの解決について書かれている。が、言っている意味はわかるが非常に面倒くさい。ついでにいえば本書の主題は近代人が常に意識せざるを得ない「時間」がいかに主観的なものであり、いかに時間の支配を当たり前のものとしているのかという本なのだ。社会に生きている以上時間に支配から解放されたいといっても、矛盾しているといえる。

まあしょうがないのだ。それを要請する社会の中に住んでいるんだし、それによる利益も受けているんだから。しかしそうした制約を意識していれば、部分部分で抵抗はできるはずだ。それを端的に表すと「現在の生をそれじたいとして愛すのだ」、だ。あまりに凡庸だが本書の控えめな、だけど誠実な結論だと思った。

われわれの意識が未来を獲得し、さらにその生が未来に向かって組織化されているときでさえ、われわれがまず第一に、現在の生をそれじたいとして愛する実感を失わないかぎり、そして第二に、未来がある具体性のあるうちに完結する像をむすぶかぎり、すべての未来がそのかなたに死をもつという事実といえども、われわれの人類の生涯を空しいものとはしない。

時間の比較社会学 (岩波現代文庫)

時間の比較社会学 (岩波現代文庫)