心理学者でありながらもノーベル経済学賞を受賞したあのダニエル・カーネマンの新刊とあっては読まねばなるまい。ハードカバーの上下巻で存在感抜群だが、意思決定の限界とシステムについてここまで網羅的なものは初めて読んだ。 本書では脳の働きを架空の2つのシステム(システム1とシステム2と本書では呼ばれている)にたとえて、このふたつの相互作用として説明している。
簡単に言ってしまえばシステム1は直感や感情といった「一瞬で把握、表現する力」のことであり、システム2は注意深い、思慮深い部分である。通常「自分自身」つまり考える主体という意味ではこちらを指す。たとえば犬をみて「あ、ゴールデンレトリバーだ」と一瞬で認識できるのはシステム1のおかげである。対して17✕24のような問題を解くときに動き出すのはシステム2だ。
テーマとして面白いのがその「システムの相互作用でどのような問題が起こるのか」である。たとえば相手が自分の好みの顔だっただけで、相手にたいして信頼を持ったり、自分の嫌いなやつに顔がにているからというだけでその人のことが嫌いになったりする。そしてその理由を聞かれた時に、システム2が最もな理屈をつけて自分を正当化してしまう。
有名どころで簡単に説明しやすそうなところから選べば、人間は利用可能性の高いものほどリスクを大きく見積もる傾向がある。たとえば雷で死ぬ人は集団食中毒で死ぬより少ないと思うだろうが実際は五十二倍も多い(日本の話ではないが)。病死は事故死の十八倍多いがどちらが多いかと問うと同程度と判断される。
事故死は糖尿病の死亡数の三百倍と判断されるが、実際には糖尿病が事故死の四倍であるなどなど……。これが何を意味しているかといえば「報道されているか否か」である。ようはよく事故死が報道されるからそれがめちゃくちゃありふれたものに感じるが、実際は珍しいから報道されているだけなのだ。大半の人はごくごく目立たずにありふれた病気で死んでいく。
今挙げたのは本書で書かれている「認知的バイアス」の、極々一部分でしかない。しかし「それだけ人間の認知はバカなのだ」という話ではない。チェスの名人は一瞬で盤面を把握し腕利きの医者は簡単に見ただけで病名を診断し、二歳の子どもは誰にも教えられなくてもバセットハウンドとチワワが「わんわんだ」と判断してみせる。
直感的思考はその都度「出来る限り早く」判断し、解決策を提示して見せる。難しい問いを前にして深く考えるよりも簡単な問題にすり替えて結論を出してしまう。たとえば有名な実験で、被験者に生活満足度調査を行う前にひっそりと10セント硬貨を拾うように仕向けた場合、被験者の生活満足度は著しく上昇したというように。
自分の生活に満足しているかどうかは本来ならば「10セント硬貨を拾ったかどうか」なんて関係がないはずだが、直前の出来事に大きく左右されてしまうのだ。ただしこれは「しあわせ」の概念がその程度で変わってしまうというわけではなく、その時その時での回答が、注意が向けられていた一要素を総合評価に適用してしまっているだけの話である。
しかも思いついたとうの自分は決定的に間違ったことをしているにも関わらず自信満々である。どうしたらいいのか、と思えるのは幸せで、大抵の場合は「どうしたらいいのか」と頭に浮かぶことすらない。原理的にいえばシステム1の安易さを止めるには、その事を見極めて思考をスローダウンさせ、システム2を発動させればよい。
問題は「それがいつなのか」を知ることだといえる。本書は豊かな事例と、人間がどういう時に認知的な落とし穴にハマってくれるのかをこれでもかと教えてくれるし、どうしたらいいのかまで教えてくれる。そこまでは知識ですぐにわかることだ。しかし「今がその時ですよ、あなた思い込みにとらわれてますよ」とその時々で教えてくれるわけではない。
難しいのは、「いまの自分自身の状況をしること」だ。ただ、その為の第一歩は自覚することであり、本書を読めば事足りる。まずは自覚から始めよう。
ファスト&スロー (上): あなたの意思はどのように決まるか?
- 作者: ダニエル・カーネマン,友野典男(解説),村井章子
- 出版社/メーカー: 早川書房
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ファスト&スロー (下): あなたの意思はどのように決まるか?
- 作者: ダニエル・カーネマン,友野典男(解説),村井章子
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