基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

山野井泰史『垂直の記憶 (ヤマケイ文庫)』

この本がスゴい!2012: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる⇐スゴ本のダインさんが2012年ベストに選んでいる3作を、読まずにはいられない。シャンタラムは僕も今年の初めに読んだし、戦争の世界史は8000円もする(高い)。一番手に入れやすいのがこの『』何も知らずに読み始めたが、山登りにかける熱い一人の男の山登り記である。

富士山にすら登ったことはないのだが、山登りをする人達の話を読むのは好きで、いろいろと読んでいた(山登りというとイメージが変わってしまうので以降は登攀とする)。夢枕獏の神々のいただきは、ただひたすらに山に登り続ける男の執念と孤独を書いた傑作であるし、新田次郎による剣岳で測量を行うという困難を書いた話は手に汗握る。

映画ならアイガー北壁が最高だ。吹雪く雪山が如何に恐ろしいかが映像としてリアルに襲い掛かってくる。身体はこごえ、動かなくなり、幻聴がし眼が見えなくなり雪崩に巻き込まれ──山の麓には登攀をニュースにしてやろうと待ち受けているマスコミや大富豪が陣取っている絵は、孤独な雪山との対比により映像の力をまざまざと見せつけられる。

そうした登攀の物語を読んできて、何よりも疑問に思うのは「なぜそんなにつらい思いをしてまで登るのか」だ。本書は自伝ともいえる内容だが、山野井さんはヒマラヤで指を10本も凍傷で失い、それどころか嫁さんと山を降りている最中に嵐につかまり死にかけている。幻覚幻聴当たり前、腹は減り岸壁にとりついたまま幾夜も過ごし、酸素が足りずに朦朧としながらも登頂を目指す。

温かい部屋、温かい布団あるいはこたつのなかで、ゆっくりと蜜柑でも食べているのが幸せというものではないのかと思うが、この人達にとっては「山に登っている」まさにその瞬間こそが、楽しかったのだろう。

世の中では安全登山ばかりを叫ぶが、本当に死にたくないならば登らない方がよい。登るという行為は、厳しい自然に立ち向かい挑戦することなのだから。常に死の香りが漂うのだ。多くの知人の死は、クライミング自体に一瞬の疑問を持たせたことも事実だが、それにもまして彼らが亡くなるまでの、あの輝きながら登る姿も忘れることはできない。平凡な日常の生活のなかからでは生まれない輝きだった。

登攀物を読むときに僕が思うのは、それは俗世間から完全に離れたところにあるからこそ自由な場所なんだということ。その時その時で最善の判断をすること。ぎりぎりの体力の中で自分の命を賭けて登り、あるいは降りること。岩肌に取り付き、一歩一歩進むこと。死を前にして本当に登りたいのかどうかと自問すること。そうしたぎりぎりの判断、自分自身を賭け賃に使う行為は「まわりの景色を消す」

社会だとか、家族だとかを抜きにして「登りたいか」「登りたいとして、これは登れるのか」「この局面でどう判断するのか」といった「目の前の困難を達成する為にはどうしたらいいのか」だけを考える。まわりには誰もおらず、行く前は止めたり、あるいは囃し立てたりしたとしても山の中にまではついてくることはない。自分で自分を測りながら前に進むのだ。

誰であろうと自分の人生を生きる権利がある。その最も純粋な形を、果敢な単独登攀者たちは魅せてくれる。山野井さんのシンプルな、出来る限り事実──危険性と、それでも登る楽しさと、山の美しさ──とその時感じたことを正確に伝えようとする文章は、僕のような富士山にすら登ったことのない人間にも山の両面を見せてくれた。

これは確かにスゴ本だ。

垂直の記憶 (ヤマケイ文庫)

垂直の記憶 (ヤマケイ文庫)