基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

人はいかに学ぶか―日常的認知の世界 (中公新書)

人生の大半を学生として過ごしてきた影響か、はたまた就職しても「資格」や「テストの点」をとらなければ自分の能力を客観的に証明できない影響か、僕はどうも「学ぶ」というと学校でやるようなつらくて苦しく時間のかかるお勉強をイメージしてしまいます。そこで前提として共有されているイメージは「学びとは苦しいものである」ことであって「人間は怠け者である」というマイナスの感じ。

本書が否定するのはそうした「人間は怠けものであり、本来学びを能動的にするわけではない」とする人間観です。たとえば赤ちゃんは誰も何も教えてあげなくても、勝手に自分自身で喋り方を憶えます。最初は親の模倣として。次第に自分なりに言語のルールを解釈し、親の言わないことにまでルールを普遍させて自由に言葉をつくりだす。

料理もサッカーもカラオケも誰に言われたわけでもないけれど、自分で自発的にやっていくうちにうまくなっていくものです。僕の文章だって一番最初に書いた記事と比べると雲泥の差ですよ⇒神林長平 膚の下 - 基本読書 最初は四苦八苦して書いていたのに今はすらすらと言葉が出てきます(未だに客観的指標ではうまくはないですけど)

料理やサッカーやカラオケやブログ、つまり自分の好奇心のおもむくなか、好きなことをやっていく時の人間の学びのイメージとは苦しさとはまったく違う、能動的であっていつのまにか成果が上がっているものです。本書は人間は意欲的かつ優秀な学び手になれる存在であることを明かし、次に子どもが言葉を学習していく過程を通して「どうやって人は学ぶのか」を教えてくれます。

そして最後にその「有能な学び手」と生徒を捉えることによって今の学習システムを変える提言が行われています。20年前に書かれた本なのですが、学校の教育システムにはまったく反映されていません。人間の教育システムの「問題があって、単一の答えがある」とするテストで点数を取るために勉強するシステムは自然な学びを阻害するやり方であることがわかるのに。

たとえば子どもにひまわりを育てさせることによって、植物に親しみをもってもらい自然を実感させたいとしましょう。その時に「このプランナーに入れて、肥料をこれだけあげて、日の当たるところに出してあげて」と全ての必要条件を先に提示してしまうのが一般的だと思います。咲かなければ効果はないと考えられているからです。

一方自由に、どこにでもひまわりの種を撒いていいと子どもたちにいうと、その辺の花壇に巻く子もいれば、日当たりの悪い場所をまったく意識せずに選ぶ子もいる。当然ひまわりがはえるこもいれば、はえないこも出てくる。しかしそこからが知的好奇心の出番なのだ。「なぜここでははえたのに、あっちでははえていないのだろう?」

そうした疑問が比較対象としていくつかの仮説を生み出す。「あっちは日当たりが悪かったからではないか」「平均温度が違うのでは」咲いた子も咲かなかった子も仮説を出すような、こうした状況は言い方を変えれば理解がまだ十分に達成されていない状態だといえる。この時「うまくいった子」も「なぜ自分はうまくいったのか」を考えるようになる。

それはつまり「今はうまくっているが」「この先も条件が変わったらうまくいくかどうかはわからない」からであって、将来の渡って今の状況を維持するためには「今うまくいく」以上に理解を進める必要があるということです。理解とは課題を達成するその先にあるわけで、その為にわざとうまくいくかどうか微妙なところに種を撒いたりしてもいい。

そして学びの一般的な性質からいって、ひまわりでうまくいった知識を別のものに応用できるようになったりします(大根を育ててみよう、とか)。チェスの経験者が駒の配置を憶えられるように、将棋指しがチェスでも強いように、一度得た理解は記憶力を良くしたり、他の分野への普遍を可能にします。

でもそうした学びができるのもは時間がかかる探索をやらせてあげた時だけなんですよね。子どもが失敗して、なぜ失敗したのだろう? と考え、大人からすれば失敗するに決まっていることをやったりする。課題に追われ、一刻も早く解決しろ! と言われている状況では探索なんてできない。このあたりのことを読んでいて自分の子供時代のことを思い出していました。

僕は子供の時親が過保護ですごくいやだったんです。夏休みの自由研究とかも全部勝手にやられちゃうし、「そんなやり方じゃ失敗する!」といって何かにチャレンジしてもすぐに正しいやり方に強制させられていたから。子供が失敗するとわかっていても、危険がない限りは黙ってみてあげているのが一番いいんでしょうね。キャッチャー・イン・ザ・ライですよ。

最後に。上記のような「能動的に学ぶ存在としての人間観」は大人にも有効でしょう。落とし穴は、一連の作業をする中で「これは何のためにやっている作業なんだろう?」と考えなくなってしまうことです。理解とは当面の課題を解決するだけではなく、全く異なる状況でも同じことができるにはどうすればいいのかというように必要以上に知識を収集することですから。

そして時間をかけて探索を行なっていく。最初にテストが本来の学びを阻害すると書いた意味が伝わったでしょうか。時間に追われ、課題に追われ、単一の答以外許可しないシステムは理解を進めじっくりと諸条件を調べる知的好奇心を前提とした人間観にあっていません。でもそうした前提さえ持っていれば、自分だけじゃなくて人にも適切に接することができるはず。

人はいかに学ぶか―日常的認知の世界 (中公新書)

人はいかに学ぶか―日常的認知の世界 (中公新書)