基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

積読のいいところを考える

僕は基本的に積読をしません。読むものを買って、読み終えたら次の物を買うのです。先に読もうと思うんだったら先に買えばいいじゃん、今買って部屋を無駄に圧迫する必要ないじゃん、と思っているわけですね。まあだから積読が減らないなどという発言をTwitterで読むと、「なんで読めもしない本を買うんだろう??」と不思議に思っていたんですよね。

今ではKindleが端末を売りだして電子書籍も、まだまだ十分とはいえないもののそこそこ充実してきています。まだ始まったばかりで、これから増える一方なのでこれからは日本でも電子書籍で読書を楽しむ人が増えていくでしょう。そうすると積読という文化も(セールがあるから完全にはなくならないだろうけど)風前のともし火なのかもしれない。

それに電子的に貯蔵された読まれない本はもはや「積まれ」ないし(まあそんなふうにして実情と言葉が離れていって言葉だけが残っているケースって割りとあると思うけれど。)そう考えていたのと、最初の疑問が繋がって、なぜ他の人は積読をするんだろうと疑問に思った。合理的に考えれば積読なんてする理由があんまりないんじゃなかろうか。

読み切れない本を買って、置いておくうちに興味が移り変わってまるで読みたくなくなるとかありそうだし。もちろん古本屋とかにいって掘り出し物をいっぱい買ってくるなんてことはあるだろうけど、それだってすぐ読んでその間他のものを読まなければいいだけの話だしね。同人誌ならまだしも商業として出されている本はそんなにすぐになくなったりしないし(もちろんものによりますよ)。

もちろん積読がいっぱいあっても、読みたい本が出たら買ってしまう気持ちはわかります。なかなか読書が追いつかないことも。

でも考えてみたところ積読っていうのは楽しい面もいくつかありそうです。「買うだけ買って読まずに積んだままにしておく」ことを積読とすると、酷く不合理であまりいい行為ではない気がしてくるけれど、ただ「未読の本がいっぱい積んである」と考えるとそれ自体がエンターテイメントなのではないだろうか? と考え方を変えてみる。楽しいポイントは4つぐらいありそうだ(まだ4つの中身を1つも考えてないが)

1つめは単に買うのが楽しいということだ。服を買う、あまり観たことがない食べものを買う、小物を買う、なんでもそうだが、ショッピングはそれだけでエンターテイメントだ。しかも服や小物と違って本というのは、買った時点ではそれが面白いのかつまらないのかわからないパンドラの箱だ。どんな本なのかな、面白いのかな、どんなことが書いてあるのかな、と買った後までわくわくが持続する稀有な商品といえる。

2つめに積まれた本は自分の暇な時間を消滅させてくれるマジックアイテムになる事をあげよう。積み上がれば積み上がるほどそれはプレッシャーになって買い主の精神をけずっていくものだと想像するが、うず高く積まれたそれは「これがあれば当分退屈しないぞ」という心強い味方にもなる。山で遭難しても軍艦一隻分の食料と水があればまったく怯える必要がないように、大量の積読は「暇になる」という恐怖をそらしてくれる。

3つめは単純に圧力になる。積み上がった未読本の山は圧力となって買い主に襲いかかる。「読め、読むのだ」と。ちょっと背伸びして買ってしまった数学の本とか、いずれ自分の実力が追いついたら読もうと思っている難解な哲学書なんかが無言で「ここまでこい」といってくるのではないか。買ったものの読む気がしなくなった小説とかは知らん。売り払ってしまえ。

4つめはそうだな……(今考えてる)、その日読むものを山の中から抜き取る、というのはなかなか楽しそうだ。積読も10冊なんてまだまだ甘い。いっそのこと何百冊も積読してしまって、その日の気分と興味の赴くままに本をつまみあげ、読むのってそれはそれで楽しそうじゃないか。

積読が崩せなくてどうしよう〜」と嘆く多くの人へ、積読が出来るのも今のうちだ。いずれ積読は死語になるか、はては「なんで読まない本を貯めこんでることを積読っていうの??」などという紙の本の時代を忘れ果てた新人類たちによって風化された言葉になってしまうかもしれない。ガンガン積読して、山を築きあげるのも一興ではないか。

ちなみに3GのKindleで200冊以上読んでるけど革命的にお手軽で本を読むわずらわしさのかなりの部分から開放されて、素晴らしいです。どれぐらい素晴らしいかというと、Kindleを買ってから本代が2倍になりました(死ぬ)。

Kindle Paperwhite (2012年モデル)

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