経済学が完璧だったことはない。なんどもバブルを繰り返し恐慌を繰り返してきた。安定したインフレ状況などを通じて俺たちはそんな時代をもはや過去のものにしたぜガハハと笑っていたほんの数年の期間もあったがその直後に恐慌が起こったりして、それ以来多くの人が「あー無闇矢鱈とおっきなこといわないほうがいいな」と思ったのかどうかしらないがとにかくその後みんなあまりおっきなことを言わなくなって経済学はまだ完璧でないと改めて気がついた(のだと思う)。
本書が一冊を通して繰り返し言うのは至ってシンプルなことだ。理論を学び、その能力と限界を知り、実現させていくべし。ようは理論と実践は違うべさという話だ。これについてはヒックスなる人物が言っていることがいちばんわかりやすいと思う。
『すべてではないが多くの場合、理論は否定的に使用されるべきものだと考える。現実に怒ることは必ずその理論の結論から外れている。外れた場合に、理論は「なぜか」という問いを生む準拠枠を与えてくれる。そこに理論の役割と昂揚があるという。そして良質な理論ほど「なぜか」という問いが本質的なものになるという』
経済学はいろいろなことを解き明かしてきた。お札をいっぱいすればお札の価値がさがるよーとか、デフレのときはおかねをいっぱい供給すれば自然といんふれになるよーとかそういう何度も観察が行えていることはわかっているし、また人間の行動モデルも利己的なばかりではなく利他的にもなるし、視野狭窄に陥るのはどういう時かと段々細かく分析できるようになってきた。
一方で貧困にたいしてどのようなアプローチが有効なのかが未だ議論がわかれるところであるし(大別すると援助は基本的に無駄と考える人と援助をガツンとしないと貧困は解決しないと考える人)国の借金が増えることを批判しつつ増税反対と叫ぶ二重思考を誰もが持っている(節約しろということなのかもしれないが限界がある)。
つまるところ経済学にはその適用限界がある。またお札をすればするほどお札の価値さがるよーレベルだったならばかなり普遍的に実証されているが、ここよりもう少しこみいってくるといろんな例外が紛れ込んできて即座にその成否を判断できない理論も多い。
ヒックスさんが理論は否定的に使用されるべきものだと考えると書いているのは、理論は具体的な現実を抽象化し論理的に組み立てた構造モデルであって、現実そのものをコピーしたものではないということが前提にあるからだ。つまりは理論は理論であり現実とはふるまいが変わることを当然とせよと言っている。
経済学はその理論的枠組からしょっちゅういろんなことが外れていく厄介な分野ではあるけれど精度の高いモデルをよく知っていれば、そこからのハズレ具合で多くの仮説が新たに立てられるようになり、そうやって経済学も発展してきた。また経済学はあくまで論理であることも忘れてはいけなくて、その先には政治秩序からきた思惑や人間の思い込みからくる反発といった様々な外部要因があって、実際の政策提言に落としこんでいく時には論理的ただしさだけを言い募らない知性が求められる。
その為にも経済学の論理を知ることがまずは重要で、その後に限界を知ることによって論理だけの頭でっかちになることを防ぐ必要がある。本書はその為に様々なお題と経済学にまつわる歴史をみせてくれて、概略的に知ることができるいい本だ。
経済学に何ができるか - 文明社会の制度的枠組み (中公新書)
- 作者: 猪木武徳
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2012/10/24
- メディア: 新書
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