著者であるジョン・バージャーは美術批評家なる肩書きをもった人物である。芸術として絵画をみるとき、それから商品を売ろうとするときの広告をみるときなど、それぞれのパターンで人が「見る」時にどのような社会的、文化的、メディアの違いからくる制約を受けるのかを分析した刺激的な一冊。
そもそも僕は油絵?? 油を使って絵を描くんですかあ?? ぐらいの知識しかなかったので、油絵の形式が「資本主義という財産と交換の新しい形態によって、画家は宇宙のあらゆる美しいものを所有するための道具だった」なんてことを知るのもたいへんおもしろかった。油絵は現実をそっくりそのままうつしとって愛好家に様々な長めを提供するが、それは愛好家にとっては「美しいものを所有する」ための手段であったのだ。
資本主義はあらゆるものを商品にかえ、商品にかえられたことで交換可能になった。「美しいもの」もまた油絵になることによって「所有」されたのである。「見る」ことは言葉よりも先にくるが、その「見る」ことは「形式」のあとにくるといえるだろう。風景画なら、見る側はその形式ゆえに自分の位置は風景の中で自然に定まる。過去の芸術をみたならば、自分を歴史の中に位置づける。
扇情的な女性のポーズの絵は対象鑑賞者を自然と「男性」に規定してしまうように、「言葉」よりも「見る」ことよりも「形式」がイメージを規定していくきっかけになる、というのが本書の中心的な主張であろう。都度みていくのはそうした形式の個別事例であって、このめぐりがなかなかおもしろかった。
たとえば広告はその昔、紙に印刷されてきたときから今のテレビCMにいたるまでその様式がほとんど変わっていないことが分かる。広告は常に未来のイメージを提供する。Aという製品を身につけ、あるいは所有して「魅力的になったあなた」というイメージだ。それを見ている側は「魅力的な自分になりたい」と欲望してCMに惹きつけられる(場合がある)。
広告が微妙なのはそうした「未来の自己イメージ」は結局のところ今生きている自分ではないわけであって、「未来の魅力的な自分」を意識しすぎると現在の自分がみすぼらしく思えてくる点だろう。「うそ!? わたしの年収これだけ!?」みたいな広告なんかがネットでよくみられるけど、その広告に共感し誘導されてしまったが最後自分の年収がひどくみじめにかんじられるはずだ。
本書は別にそれにたいして「悪即斬!」と非難しているわけでもないし、「こうしていこうぜ」という方向性を示しているわけでもない。物の見え方、イメージにはそうした文化的社会的制約と鑑賞者の規定とそこからくる心理的な誘導や得られるもの失うものがあることを言っているわけで役に立つわけではないけれど、知っていると見ることについて意識は変革するだろう。
- 作者: ジョンバージャー,John Berger,伊藤俊治
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2013/01/09
- メディア: 文庫
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