ナボコフは自身の文学講義の中で良い読者になるためにはどうあるべきか、次の十の定義から四つを選びなさいといった。
1 読者は読書クラブに属するべきである。
2 読者はその性別にしたがって、男主人公ないし女主人公と一体にならなければならない。
3 読者は社会・経済的観点に注意を集中すべきである。
4 読者は筋や会話のある物語のほうを、ないものより好むべきである。
5 読者は小説を映画で観ておくべきである。
6 読者は作家の卵でなければならない。
7 読者は想像力をもたなければならない。
8 読者は記憶力をもたなければならない。
9 読者は辞書をもたなければならない。
10 読者はなんらかの芸術的センスをもっていなければならない。
さて、あなたなら何を選ぶか。この十の定義は良い読者であるために必要なものを選別することはもちろん、選ばれなかった六つの定義を用いる読者に陥ることを戒めている。答えは最後の四つで、良い読者になるために必要なのは想像力、記憶力、辞書、そして芸術的なセンスだという。なるほどわからないでもないが、なかなか抽象的な話であってあまり具体的なイメージが沸かない。
なので自分でも考えてみよう。世の中には傑作も駄作も数多くあるけれど、たとえどんなにクソみたいな作品でも「素晴らしい!」という人はいるし、その逆にどんなに素晴らしい作品でも「ゴミだわこれ」という人はいるものである。それがなぜかといえば、読書というのは「読む」という能動的な行為であってそこから何を読み取るのかは、読み手の能力に依存していることが理由だ。
たとえどんなにゴミみたいな話でも人によってはそこから過去の実体験なりあるいは深読みなりをして自分にとっての傑作的意味を読み取ることがありえるし、あるいは傑作であっても自分にとってまったくもって気に入らない小さな瑕疵をことさら拡大解釈し「駄作」の烙印を押すことがありえる。様々な書評家をみてきたがこの落とし穴というのは著名なレビュアーであってもそうそう避けられるものではない。
じゃあ作品の客観的な評価など不可能なのかといえば、僕は不可能なのだと思う。ここでいう客観的な、の意味は科学的な意味での客観性を用いている。ようは再現可能性があるかどうかという意味だ。作品の評価で言えば、ある作品の評価が出たとして何百万人もの人間がその評価を妥当なものとして見なすかどうかといったこと。
もちろんある程度までの客観性をもった評価というのは出来ると思う。1000人が評価をみて900人が同意するような。だから客観的な評価が可能か不可能かとする二分別の分け方はあまり好ましくないのかもしれない。
ただ少なくとも万人が納得する一定不変の価値などを提示できるとは思えない。『価値あるものはすべて、ある程度は主観的なものだ』とナボコフは言ったが、まったくもってそのとおりだと思う。万人にとっての傑作など存在しないように。
しかしそもそも主題は「良い読者である為には何が必要なのか」である。作品には万人普遍の価値があるわけではないし僕らは主観的制約から逃れられないし逃れる意味もないとしたらどのような姿勢が「良い読者」たりえるのか。
ナボコフがいうところを先に述べておこう。ナボコフが最後の4つの定義で言っているのはつまるところ小説は作者が作り上げた一つの異世界であり、読者はその世界を一片残らず堪能すること、把握すること、作中の人物が体験していることをこの眼でみて、耳できいて、衣装や舞台や振る舞いをすべて記憶しつくさんごとしの勢いで体験すること。
これこそがナボコフにとっての良い読者なのであった。その為に必要なのが芸術的センスと、述べられていることの意味を把握する辞書的知識と、起こっていることを記憶していく記憶力と、自分をその世界で位置づける想像力だといったのであった。ちなみに主人公なんかと心情を一体化させて、つまり「感情移入」させることによって物語を読むことをナボコフは読者に使ってもらいたくない想像力であると言っている。
コレは僕も同意だ。よく「感情移入できなかった=だからつまらない」というような感想を目にするが、アホみたいである。作品はあなたに感情移入させるためにあるわけではない。しかし多くの人は感情移入して作品を読むのが当然だと思っているし、最近の多くのライトノベル作品はそもそも最初からそれを狙って書かれている。一息で斬って捨てるほど最悪なわけではないが、それは作品としての可能性を大幅に狭める。
さて、僕の考える良い読者とはなんだろうか。だいたいナボコフの言っていることと同じであるような気はするけれど、作品に対して誠実であることに尽きると思う。たいていの作品には良い部分と悪い部分がある。完璧な作品なんて存在しない。よくできていても自分の好みに合わないものもある。そういう時にできるだけ両面をみること。できるかぎり全体を見ようとすることが、やはり良い読者といえるのではないかと思う。
たとえばまおゆう魔王勇者という作品がある。先日アニメが放映されたがネットでも賛否両論でわいわい賑わっている。僕は原作を一巻だけ読んで、そこから先は読んでいないのだが(読むのが苦痛だったので……)、かといって面白いとする見方がわからないわけではない。僕は主にキャラクター間のやり取りが苦痛で仕方がなくて読むのをやめたのだが、それ以外の部分でこの作品はおもしろさを持っていると思う(本筋ではないから書かないが)。
ようは作品の世界は広いということだ。キャラクタがいて、キャラクタのやりとりがあって、世界観があって、描写があって、衣服があって、時代性があって、社会があって、プロットがあって、テーマがあるのだ。そのどれかが気に入らなくても、それ以外までも同様にうっちゃるのはあまりいい態度ではないだろう。
僕にとっての良い読者というのは、できる限り作品を「様々な部分でなりたっているひとつの世界」として認識し、自分が仮に気に入らなかったとして、世界がまるごとひとつ気に入らないのか、あるいは部分の集合体であるうちのどれとどれが気に入らないのかという認識を分断できる人間である。逆もまた然り。
ナボコフが十の定義にわざわざ六つの選ばれざる定義を入れている理由は、それが「不当に作品の評価枠を狭めてしまう」ことだからだろう。◯◯しなければならないとか、◯◯に注意するといったことは作品の枠を縮めてしまうのだ。つっても読書クラブなんかかはナボコフの時代のそれがどんなものだったのかしらないのでよくわかんないけど。
さて、そうして作品世界を様々な部分からなる一つの世界と捉えたとして、良い読者である為に作品にたいしてどう向き合うべきだろうか。完全に客観的な評価をくだすことはできないかもしれないが、ある程度であれば客観的な評価をくだすことはできる。ナボコフの話に戻ると、読者がもし、これから育まねばならぬ最上の気質はなにかといえばただちに答えられると彼はいう。
それは芸術的な気質と科学的気質が結合したものだと。ただ熱狂的な芸術家であるだけでは、ややもすると作品にたいする態度が主観的にすぎることになるし、科学的な冷静な判断がかちすぎれば、直感的な熱も冷えてしまうだろう。とはいっても、自称読者に情熱と忍耐が──芸術家の情熱と科学者の忍耐が──完全に欠けていれば、そういう読者が偉大な文学を享受することは、まず不可能であるだろう。
作品はひとつの世界で成り立っているといっても時間をかけられず、考えこまれず、ようはあまり出来の良くない作品は存在する。そうしたものにたいしてどうやって対峙していくのかという話だ。資本主義社会では良いと思ったものは支援し、悪いと思ったものは残念ながら消えてもらわねばならない。資源は有限である。「つまらない」とあえていうのも自分にとって心地よい世界をつくるためのひとつの手段だ。
良い読者であるのもなかなか楽じゃない。
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