基本読書

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偉大な文学作品であり、かつ偉大な講義『ナボコフの文学講義』:ナボコフ

日本では一度『ヨーロッパ文学講義』として出ていたが長らく絶版。今回こうして文庫として出ることになり、僕もたまたま興味を持って読んでみた。ナボコフは1940年の5月にアメリカにやってきて、国際教育研究所で抗議し、スタンフォード大学ロシア文学の夏期講習を受け持った後ウェルズレー大学に7年間落ち着くことになった。

本書はナボコフが講義で扱った講義録を保存し、一冊の本としてまとめている。講義形式はそのままを保っているが、読む際に特に支障になるようなことはない。当時教壇にたって熱に浮かされたように話すナボコフが目に浮かぶような内容だ。

さて、文学講義といっても世の中にはいろいろある。佐藤亜紀さんの小説のストラテジーのように小説をどう捉えて読むのかといったことを教えるものもあれば、一冊の本を仔細に読み込んでいって細部の意図を詳しく考察していくものもあるだろう。

ナボコフの文学講義ではその時々で一冊の本を扱い、細部について膨大な引用を交えながら、作品のどんな点が素晴らしいのか、ある箇所のイメージは実際どうなっているのか、そして小説の構造はどうなっているのかを解き明かしていく。

ナボコフが注目していくのはどこまでも作品の細部であって、よく実際の舞台となっている世界の見取り図や、描写されている内容からイメージ図を書き下ろしたりする。たとえばカフカの『変身』で男が変身した虫がどのような形だったかについて。そしてプロットを整理し、秩序立てて並べ替え、それを詳細に描写しながらどんな効果をあげているのかを見ていくことになる。

作品のプロットを執拗に並べ立てていくのは退屈に思えるかもしれないが、ナボコフの情熱あふれる文章がこの文学抗議自体をひとつの文学作品のようにしているように読めた。あることを説明するのにばんばん読んだこと、想像したこともないような比喩が飛び出し、その喩え話のあまりのうまさに思わずそれが何を語っているのかがどうでもよくなっていくぐらいだ。

特にこのナボコフの文学講義で僕が読んでいて面白かったのが、各作家の文体について評しているところで、あまり文体論というのは読むことがないのでこれがおもしろかった。小説が言葉で表現する世界だとするならば文章は作家にとっての表現する手段、画家にとっての絵に相当するわけで、これについての詳細な評があるのはとてもありがたいことだ。

そこでもナボコフの表現は留まるところを知らない。たとえばジェイン・オースティンの文体について書かれたところはこんな風にはじまる。

オースティンの文体の要素のなかで顕著なのは、わたしが「独特のえくぼ」と呼びたいと思うもので、それは平明な説明の構成部分のあいだに、そっと微妙な皮肉の文章を挿入することによって得られる。鍵になる語句と思えるものに傍点をつけて引用してみよう──(引用部分は超長いので割愛。重要なとこだが) 中略
この種の文章を「えくぼを浮かべた」文章と読んでいいだろう、この作家の青白い処女の頬に浮かんだ繊細で皮肉っぽいえくぼ。
もう一つの要素は、わたしが「警句的抑揚」と呼ぶものだ。それはやや逆説的な考えを機智をこめて表現する、完結できびきびした一種のリズムのことである。この声の調子はぴりっとしていて、やさしく、乾いていて、なおかつ音楽的であり、力強く簡潔でいながら、透明で軽やかだ。

文体を表現する文体がすでにして独特なリズムを刻んでいる(といってもこれは講義なので文体ではないのだろうが。しかし講義録なので文体でいいのかもしれない)。これはナボコフが文学を語るほんの一端であって、実際は常にこの調子で数々の作品を歌い上げていく。ジェイン・オースティンマンスフィールド荘園』チャールズ・ディケンズ『荒涼館』ギュスターヴ・フロベール『ボヴァリー夫人』

スティーヴンソンの『ジキルと博士』、プルーストの『スワンの家のほうへ』、カフカの『変身』、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』。彼の講義というのは、何か文学について偉大な真実を教えているわけではないのだと思う。講義はめちゃくちゃ主観的で、作品の選定には一貫性がなく基本的に自分が大好きな作品を選んでいるだけだ。そして自分が大好きな作品について、これでもかというぐらいに細部を突き詰めて自分がいかにこの作品が好きなのか、どんなところを素晴らしいと思っているのかを延々と語っているのである。

しかしだからこそこれはただの文学についての講義ではなく、文学講義文学とでもいうような特殊な領域に踏み込んでいるように思える。ただひたすら熱を上げて、回転数を増しながら熱狂的に文学作品を語り尽くしていくナボコフを追っていくうちに、読み手は(講義の受け手は)ナボコフの語る内容から学ぶというよりかは、ナボコフの姿勢に学んでいく。どのようにして小説世界を堪能するのか、どうして細部を追求していくのか、ナボコフはどうしてそんなに熱狂しているのか?

僕は結局人から人に伝える最も大きなものはその「生き方の姿勢」みたいなものなのではないかと思っている。上から下に伝えるように、一方的な情報の伝達はまったくもって無意味だ。意味があるのは受け手が「知りたい」という欲求に基づいて、「教えてください」といった時のみであって、ようは「知りたい」という欲求を生み出す「姿勢」だけが人が教えられるものだと考えている。

ナボコフの講義をうけたウェッツスティーオンが過去『トライクォータリー』という雑誌にナボコフの思い出を寄せている内容が、本書の序文には載っている。『細部を可愛がるんだよ、caressするんだ』とよく言っていたそうだ。そして結びにはこう書かれている。ナボコフは偉大な教師だった、教えかたが上手だったからではなく、主題にたいする深い愛情ある態度をみずから身をもって例証し、学生たちにもそういう態度を身につけるよう刺激したからである』

僕はそれこそが偉大な教師の条件だと思う。何を教えるかが重要ではなく、自身の姿勢を伝えること。ナボコフの文学講義は偉大な作家によるひとつの文学作品であり、何より文学に対する誰よりも真摯な態度、姿勢といったものを見せてくれる偉大な教師によるひとつの講義だ。

ナボコフの文学講義 上 (河出文庫)

ナボコフの文学講義 上 (河出文庫)

ナボコフの文学講義 下 (河出文庫)

ナボコフの文学講義 下 (河出文庫)