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はじめにコマンド・ラインがあった『チューリングの大聖堂: コンピュータの創造とデジタル世界の到来』

チューリングの大聖堂 上: コンピュータの創造とデジタル世界の到来 (ハヤカワ文庫 NF 491)

チューリングの大聖堂 上: コンピュータの創造とデジタル世界の到来 (ハヤカワ文庫 NF 491)

チューリングの大聖堂 下: コンピュータの創造とデジタル世界の到来 (ハヤカワ文庫 NF 492)

チューリングの大聖堂 下: コンピュータの創造とデジタル世界の到来 (ハヤカワ文庫 NF 492)

分厚く、内容は詰まっていて、かつお高い。がここにはデジタル・コンピュータの創世神話がまるごと入っていて、それを思うと値段も分厚さも気にならなくなる。ひとことで言えば信じられないような大傑作で、この本の中で描写されていく科学者たちの描写に、葛藤に、何よりフォン・ノイマンを筆頭とする「天才」たちに、身も震えんばかりだ。

本書の言葉を借りて言えば、デジタルコンピュータが織りなす世界がこの先どこへ、どれほどの速度で向かうのかはさっぱりわからないけれど、この革命がどうやってはじめたかを知ることはできる。そしてこれだけの革命に携わった人間たち、その思考を知るだけでもとてつもないものに触れることが出来る。

本書の構成は通常のように時系列順にデジタル・コンピュータの創世を追っていくのではなく、時間は関係なくそれぞれのトピックに関連する形で、時代を切り取っていく。たとえば第九章の『低気圧の発生』ではコンピュータによる未来予測、およびその課題としての天気予報の予測は可能なのか不可能なのかといったことを題材にしている。

章ひとつとっても刺激的な逸話になっていて、時々で出てくる専門家も違う。しかし一貫して出続けているのがフォン・ノイマンで、彼はどんな話題でもデジタル・コンピュータに結びつき、そしてどんなことでも理解していて、常に物事を前に推し進めていく立役者として存在している。

デジタル・コンピュータの創世神話として、ライプニッツからチューリングへ、チューリングからフォン・ノイマンへと大まかな流れとしては進んでいくことになるが、フォン・ノイマンはチューリングから実際にフォン・ノイマンがチューリングマシンを現実のものに置き換えていく過程で必要不可欠な接着剤のような人間だったように本書を読んでいると読める。

彼はデジタル・コンピュータをこの世に出現させて、役立てるためには最適の人間だったのではないか。ありとあらゆる科学的知見を一瞬で理解し、自身でも想像し、あらゆる問題を定義し、問いかけ、それらの問いを解決するために必要になるであろう各分野の専門家に接触し、そして誰もがフォン・ノイマンに惚れ込んだ。

もちろんフォン・ノイマンだけが重要な存在だったわけではないそこにはひたすら研究に邁進するための環境として純粋に研究に撃ちこむことだけを目的に創られたブリストンの高等研究所という特殊な場所があり、携わった多種多様な天才たちがいて、そして何より兵器へと利用されていく歴史的な事情もあった。

実際コンピュータは核爆発を起爆させるため、そして爆発のあとに何が起こるのかを把握するために不可欠な存在だった。

フォン・ノイマンは兵器への転用に熱心に関わり、その死に際して娘から「あなたは何百万人もの人々を亡き者にすることを沈着冷静に考える人なのに、自分自身の死に直面することができないのね」とまで言われるようになるのだが(返答は「それとこれとはまったく違うんだ……」)、素晴らしいものが素晴らしい結果を残すということもないのだ。

人間の発明品のうち、最も破壊的なものと最も建設的なものがまったく同時に登場したのは偶然ではなかった。コンピュータのおかげで発明することができた兵器の破壊的な力からわれわれを守ることができるのは、コンピュータの総合的な知性以外にはないだろう。

とにかくフォン・ノイマンはそれをやり遂げたといっていいだろう。そしてそんなことが、フォン・ノイマン以外にできただろうか? たぶん、時間さえあればできあがったのだろうと思う。でも、今ほど急速には進化しなかったかもしれない。ぐだぐだと無意味とも思えるような時間を経てようやく出てきたかもしれない。歴史にifはないが、もしこうだったら、といろいろ考えてしまう。フォン・ノイマンの天才性を伝えるには、本書はエピソードが事欠かない。

彼には、「数学者としては珍しいと言えるであろう」一つの才能があったと、スタン・ウラムは説明する。それはこんな才能だ。「物理学者たちと打ち解けあい、彼らの言葉を理解し、それをほとんど瞬時に数学者の図式と表現に変換するのだ。さらに、このやり方で問題を処理したあと、今度は逆にそれを物理学者たちが不断使っている表現に戻してやることもできた」。

「どんなカテゴリーに分類しようとしても、彼はどうしてもそこに納まらないのです」とクラリは説明する。「純粋数学者たちは、彼は理論物理学者になってしまったと言い張りました。理論物理学者たちは、彼のことを、応用数学分野の偉大な支援者・助言者と見なしました。応用数学者たちは、象牙の塔に住んでいるこんな純粋数学者が自分のテーマを応用数学に敷衍することにこれほど関心を抱くのに畏敬の念を抱きました。そして、政府関係者のなかには、彼を実験物理学者、あるいは、場合によっては技術者と考えていた人たちもいたのではないかとわたしは思っています」

そして天才はフォン・ノイマンだけではない。チューリングもいる、アインシュタインも、ウラムにバリチェリにビゲロー! みんな信じられないような発想と、そして信じられないような能力でもって仕事に当たっている。そしてフォン・ノイマンの号令の元、プロジェクトに関わってきた幾人もの人たち。

まだコンピュータの有用性が今ほどはっきりしていない時から、みんなフォン・ノイマンが「コンピュータの計算能力が科学のすべて、そしてほかの多くの分野を席巻し完全に変貌させてしまう」ことをはっきりさせてくれ、だからこそ確信を持って進められたとプロジェクトのメンバーによって書かれている。

そして……本書は後半に向かうにつれて、最初に「コンピュータの未来を予測するのは不可能」といっていたが、今後起こることの予測、問われるべき問いが現れてくるようになる。機械知性は産まれえるのか。答えることが可能なすべての問いに答えることのできる機械は実現できるのか。

その為に必要になってくるのが、「問い」に対する「答え」だけではない、「答え」から漠然とした問いや概念を把握するような「アナログな」捉え方ではないかというのが本書の未来への過程だと思われる。現実の世界では、答えを見出すほうが質問を定義するより簡単である。たとえばネコのようなものを書いたほうが、何が揃った時にネコにみえるのかを定義するより簡単である。

こどもはねこをたくさんみて、あるいは自分でかいてみてはじめて「ねことはこういうものである」と気がつくだろう。今ではサーチエンジンが、デジタルからアナログに変わろうとしている。ひとつの問いにひとつの答えは、常に何らかの痕跡を残して次の質問へと役立てられる。常に現実から学び取っていく知性体であるといえる。

はじめにコマンド・ラインがあった。人間のプログラマが指令と数値アドレスを与える。そこにはコンピュータは自分で考え実行する動作はないが、しかしそれを阻むルールもなかった。指令のあと、今ではプログラムは勝手に考え始めている。勝手に考えた結果を人間の側にフィードバックする。サーチエンジンやページランク、ソーシャルグラフなどはまさにそのような手法だろう。

コンピュータは人間の能力をどんどん、もっと高いレベルで置き換えていっているように思える。はたして人間の要素をどんどんコンピュータが置き換えていって、人間に最後に残すであろう「考えること」さえももはや自分たちの専売特許ではなくなった時に、恋をすること以外に何かすることがあるだろうか?

フォン・ノイマンやチューリングが構想したコンピュータは、まだまだその途上に過ぎないのだろう。はやくもっと未来がみてみたい。いったいなにが起こっているんだろうか。しかし、何が起こるにせよ、すべてはここからはじまったのだ。

「われわれが今作っているのは怪物で、それは歴史を変える力を持っているんだ、歴史と呼べるものがあとに残るとしての話だが。しかし、やり通さないわけにはいかない、軍事的な理由だけにしてもね。だが、科学者の立場からしても、科学的に可能だとわかっていることをやらないのは、倫理に反するんだ、その結果どんなに恐ろしいことになるとしてもね。そして、これはほんの始まりに過ぎないんだ!」──フォン・ノイマンが言ったとされる言葉