基本読書

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世紀の空売り 世界経済の破綻に賭けた男たち (文春文庫)

アメリカがバブルで盛り上がり、新しい金融工学投資銀行各社が金を使って金を生み出す魔法のような現象の中にいたとき、そのペテンを見ぬいて逆に張った男達がいた。これはかれらの話だ。あの破綻がなぜ起こったのかについては様々な分析の本が出ているけれど、その渦中においてそれにとっくに気がついて、それを利用したり忠告したりしていた人間に注目した本はこれではじめて読んだ。

話の鍵になるのはCDOという金融商品だ。これは債券担保証券のことで、複数の公債や住宅などのローンなど、様々な債権をパッケージングしたものになる。中身は「これとこれとこれです」というふうに明確に提示されているものではなく、よくみえない。そうした商品が格付け会社のお墨付きで売られていく。

投資の必然として、利回りを高くするならば当然中身のリスクは高くなる。そしてその材料になったのが、当時の住宅ローンだった。投資会社各社はローンを買いとって、それをごたまぜの金融商品にして安全度のランク付けをし、ほうぼうに売り飛ばすわけだが、それを買い取るウォール街の人間はいくらでも買うといった状況で、だからこそ住宅ローンを融資する側も証明書を求めないで相手の言っていることが嘘だとわかっていても融資した。

この証券化の仕組みについては僕は全然詳しくないのだが『マネー資本主義』というところからの説明を要約してみる。CDOのような金融商品は、水の浄化システムのようなものだという。濁った水を浄化させるときは、不純物をタンクの底に沈殿させる。上澄みの層(A)と、じゃっかん濁った水が混じっている中途半端な層(B)と、濁った水が沈殿している層(C)。これをリスクにおきかえてみると、大量の住宅ローンを集めてそれを小口の債券にわけて商品化するとき、ルールを決めることで達成できる。

もし貸し倒れがでても、一定数まではCの債券が損害をかぶることにする。その一定数をこえたところだけ、BやAの債券にリスクが及ぶようにする。当然ながらリスクの低いAは利回りが小さく、リスクの高いCは利回りが大きい。それぞれの求める利回りの大きさによって、クズのような住宅ローンを集めた債券が多種多様な人に売ることのできる魅力的な金融商品になるというわけだ。

逆に言えば中途半端なBの部分は売れ残ることが多いというが、それらをもう一度集めて再配分することで、大量のA層を再度創りだすことが出来る。これも本来であれば素晴らしい金を生み出す理論のはずだった。住宅ローンや自動車のローンといったように、様々なローンを対象にすることでリスクは分散を図れるはずだったからだ。しかし当時の状況は住宅ローンに大きく傾いていたのだった。

住宅の価格は上がり続け、「上がり続けているんだから住宅を持っている人間にたいしていくら貸しつけても問題ない。だって上がり続けているんだから」という論理で金を貸し続けた結果があの阿鼻叫喚の破綻だった。こうした危機的状況を、当時のレポートなどからすると「なにやらやばそうだ」という調査報告はあがっていたにも関わらず、多くの人々はそれにたいして何の対策も打たなかった。

しかしそれを早くから気がついて、警告を発したり、逆張りすることでとんでもない金を設けた人間たちがいるのだ。儲け方は簡単に説明してしまえば、「ある会社が破綻する方に賭ける」というものだ。まあ保険のようなものだ。何事もなく、価値が上がり続ければ、こちらは金を払い続ける。しかし何かがあった場合、価値が急落した場合は、金をがっぽりといただける。

人のいうことをそのまま鵜呑みにしたりしなかった。自分たちで考えて、自分なりにデータを付きあわせて、自分たちなりに「これはおかしい、おかしすぎるのではないか?」と気が付いていったのだった。対して大多数の人間は深くは考えないように、見えている現実を見ないように取り繕っていたようにしか見えない。事実を把握している人間がいくらそれを突き詰めても、誰も答えたり理解しようとしなかったことが書かれているからだ。

大勢の人間が「Aだ」と言っている中「Bだ!」と強行に主張し続けた彼らはおしなべて変人だった。

当然かもしれないが、そういう面々は、例外なく変わり者だった。しかし、全員が同じように変わっていたわけではない。ジョン・ポールすんの変わっている点は、いかがわしいローンの破綻に賭けたその賭けっぷりと、他人を口説いて賭けに巻き込んだその口説きっぷりだった。マイケル・バーリの変わっている点は、みずから望んで世論と距離を置き、他人とじかに関わるのも避け、そのかわりに、統計データに意識を集中し、また、金融がらみで人がどんな行動に出るか、それを予見する手立てとして動機に焦点を当てようとしたところだった。スティーヴ・アイズマンの変わっている点は、アメリカの中流層を踏み台にするのは、それ自体が不正であり、また不正の現況でもあると考え、なかでもサブプライムモーゲージ市場は、搾取の、ひいては破壊の原動力になっていると確信していたことだった。そのひとりひとりが、それぞれの持ち場で市場の穴をふさいだ。ひとりひとりが、行方知れずになっていた見識と、リスクに対する身構えを補った。それがもっと広く行き渡っていれば、大惨事を食い止めることができたのかもしれない。

ただただ無意味に人と違う、「変人」であれといっているわけではない。ただの奇行を繰り返す人間になってもしょうがない。ただ大勢の人間がAといっているからといって、「じゃあAでいいか」とする態度が問題なのだろう。せめて自分がやっていることについてはちゃんと把握をしておけという、あまりにも当たり前なお話でもある。

もっともそれが楽なわけではないのは本書を読むとよくわかる。「自分は頭のネジがはずれちまっているんじゃないのか?」「もしくは自分たちは知らない決定的な(破綻につながらない)情報を相手方は持っているのではないか?」とはったりの金融状況に気付いた人間がしきりと心配する場面が出てくるが、人と違うことを言うというのは大変なのだ。

ある危機的状況に対して、たったひとつの冴えたやり方があるわけではない、ただそこにたいして気がつく道のりはいくつもあるし、そこから取りうる態度にもいくつも違いがある。できれば同じ状況になった時に、頭のなかにある固定観念や願望が邪魔して現実を直視できないといったことにはなりたくないものだ。本書はエンターテイメントとして読めば一流のフィクションのように盛り上がるし、現実に適用可能な知見がいっぱい盛り込まれていて盛り上がる。興味があればぜひ読んでみるといい。

世紀の空売り 世界経済の破綻に賭けた男たち (文春文庫)

世紀の空売り 世界経済の破綻に賭けた男たち (文春文庫)