基本読書

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待て『すべては「先送り」でうまくいく ――意思決定とタイミングの科学』

生きていると何かと素早い決断を迫られることが多い。学生だったらまあそう多くないかもしれない。次に進む学校はどこにするか、自分の専攻を何にするか、イジメられているのだがそれを誰に相談したらいいのだろう、部活はどこにしよう。将来の夢はなんだと小学生のころから聞かれ続ける。そんなんわかるわけねーだろボケ、目標なんか持たないで生きてやる! と反発し、ひねくれた人間になってしまった(無関係)。

その後時計が先に進むにつれ、会社に帰属したり自分でお金を稼ぐように成ったりすると、やれること、やらされることが増え、責任が増し、自分の下した一瞬の決断タイミングの差が大惨事を引き起こしたりする。たとえば自分たちの国の領地に入ってきた飛行機が、民間の航空機であるか、はたまた敵国の戦闘機であるかを判断しなければいけない場合を考えてみよう。ぞっとするような状況だが、撃墜するか、撃墜しないで見送るかをすぐに決定しなければならない。

判断が遅れれば爆撃され何百人もの命が、施設が失われるかもしれない。かといって民間の航空機だった場合罪のない人々を無為に何百人も殺すことになる。その判断をしなければならないことが実際に1988年にはあった。艦長はベテランで、数々の難しい決断を下してきた人間だった。彼が下したのは撃墜。しかし標的を破壊した後で、それが民間の航空機であったことが判明して愕然とすることになる。

その分野のエキスパートではなく、合理的に選択肢を比較・選別する時間もないとき、最善の道は往々にしてなにもしないことだ。素人は間違った行動に出やすいので、たいていはまったく動かないのが正しい動きなのだ。

先ほどの艦長の場合は「素人」ではないと考えるかもしれない。しかし同様の状況に出会ったことがないという意味では「素人」と変わらないと考えることも出来る。その状況に初めて出会い、素人と同程度の情報しか持っていない場合には、当然のことだが素人と変わらない判断しかできないのだ。『素人になっているとき、意思決定までに数秒しか残っていないとしたら、たいていの場合もう遅い』

この時の事例などは「判断を遅らせればよかった」ものになるだろう。実際、こういうことってよくあるのではないかと身近を見ていると思う。決断を下す立場にいるからというだけの理由で、特殊な状況で素人同然の人間が判断を迫られるのだ。そりゃあうまくいくはずがない。博打のようになってしまっているのだから。3.11原発事故の詳細なルポを読んだが、そこで起こっていることも専門家と言われている人間でさえも何をどうしたら良いのかわからない「みんなが素人になっている」最悪の状況だった。

かといってメルトダウンに繋がっている事故を「遅らせ」続けることが最善の選択肢であるはずもなく。「将来の夢」を小学生で決める必要なんてないが、50代になってから決めたって遅いのだ。*1だから重要なのは、その問いに対してどれだけの時間考えられるのか、時間の枠を確認すること。そして次に、その時間の枠内でめいいっぱい考えることだ。

面白いのが、これがほんの数百ミリ秒の判断を迫られているプロアスリートの世界でも通用する考え方であるというところ。

たとえば140キロなどの速い球を打ち返す野球の打者は、それだけ人より視覚能力が優れているかといえばそうではないらしい。京都大学の研究によれば、薄暗い部屋に表示させた画像への反応速度は、プロ野球選手と特に運動しない人との間で特に違いはなかったという。視覚反応が人より速いから秀でているわけではないとしたら、その後の行動が速いことがプロとアマチュアをわけている。

ほんの1秒に満たない時間の世界だが、プロは身体の運用速度が速いために、素人より「よく観察して」「よく判断して」「行動にうつす」ことができるのである。そしてそれが最終的に大きな差になって現れてくる。こうした事例を読んでいくと「先送り」というタイトルはちょっと変だなと思う。原題通り「Delay」、遅らせること、減速させることを主題としている。

兎角急かされがちな原題において判断を「遅らせ」ることは、もっと注目されてもいいだろうと思う。急かされ、中途半端なまま決めてしまうことで、あるいは先入観で決めてしまうことのなんと多いことか。素早く考えて行動を起こさなければいけないときには素早く決断し、ゆっくり考えるべき時は思考をスローダウンさせる。でもそうした状況を判断するのがもっとも難しいことだろう。

まあ、とにかく待ってみよう。

すべては「先送り」でうまくいく ――意思決定とタイミングの科学

すべては「先送り」でうまくいく ――意思決定とタイミングの科学

*1:もちろん、それでいいこともある。