基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

原初の一点から無限の空白へ。『コロロギ岳から木星トロヤへ (ハヤカワ文庫)』小川一水

うげー、天冥の標を書く傍らで、こんな上質な一点物まで書いてみせるとは、驚くほかない小川一水による最新長編。240ページ足らずの、一般的といっていい長さの長編だけど、無限に等しい想像力の広がりがここにはある。テーマは、時間だ。それも単なる時間から時間へ移動するタイムマシン物ではない。時間と、時間の関係性が、とてもシームレスに関係しあったらどうなるのかという、「つながった」時間のイメージだ。

西暦2231年、木星前方トロヤ群の小惑星アキレス。戦争に敗れたトロヤ人たちは、ヴェスタ人の支配下で屈辱的な生活を送っていた。そんなある日、終戦広場に放算された宇宙戦艦に忍び込んだ少年リュセージとワランキは信じられないものを目にする。いっぽう2014年、北アルプス・コロロギ岳の山頂観測所。太陽観測に従事する天文学者、岳樺百葉のもとを訪れたのは…。21世紀と23世紀を“つないで”描く異色の時間SF長篇。

いきなりネタバレになってしまうけれど、中心的なアイディアとしての「空間を移動するのではなく、時間軸を自由に移動できる生き物」がまずSFとして素晴らしい。当然時間を移動するわけだから、未来に起こることも過去に起こることも把握している。というかそれは単なる「A地点」と「B地点」に過ぎない。僕らが電車にのって仕事にいくような感覚だ。

そしてその描写の仕方がまたうまい。『原初の一点から無限の空白へ』というのは本書におけるエピグラフをのぞいた最初の一文になるが、この言葉の持つシンプルな想像力の広がりが、サイエンス・フィクションの醍醐味といってもいい。今からまったく異なる考え方をする世界に自分を投げ込んでいくんだ、とそうした震えるような気持ちで最初のパラグラフを読み始める。至高の一瞬だ。

 原初の一点から無限の空白へ。湧き出した流れは全方位へ広がった。糸のように一次元で走ったか、あるいは膜となって二次元で流れてくれたら、それを川とも呼べただろうが、あらゆる方向へ広がって満ちたのだ。ちょっと川とは呼べなかった。それに大体、川を知らなかった。
 時の泉を泳ぐのだ、とカイアクは思っていた。

時の泉! 素晴らしいイメージ。この不思議生物カイアクが人間社会にスタックしてしまって──不思議生物は不思議生物であるがゆえに21世紀と23世紀を「つないで」しまうのだ。

人間は不思議生物ではない。空間軸の代わりに時間軸を動く「カイアク」ではないのだから、あらよっと手軽に200年先の未来には行くことができない。当然過去にも。でもそこには行き来ができるカイアクがいて、人間は自分自身を行き来はさせることができないが、それに等しい能力を持っている。書くこと。表現すること。伝えること。

紀元前の人間の言葉や壁画が2000年を超えて今なお人間の間に広まっているように、人間の表現は時を超える。あるいは表現でなくても、たったひとつの良い行い、あるいは制度が、何百年も先に大きな結果を残したりもする。全ては面々と連なっている。言うまでもなく連なっているわけだけど、あまりそうした時間軸で物事を意識することはない。

歴史を学ぶというのはそうした視点を身につけることでもある。過去の行いが今につながっている。そして当然今の行いは未来につながっていく。そうした視点を提供してくれるのは歴史よりSFの出番なのかもしれない。本作は最初の書いたようにわずか240ページ程の長編ではあるが、そのページの中にはでっかい宇宙、ながーい時間が相互に関係しあっていて想像力は果てしなく広がっていく。

時間軸をおよぐカイアクのイメージはSFならではのものだ。そのイメージの中で、人類の営みは鳥瞰から見下されるように表現される。チャップリンは『人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ。』といったが、超ロングショットでみたら人類の流れっていうのはどう見えるだろう。喜劇か悲劇か。それともどちらでもないかな?

楽しい一冊。

コロロギ岳から木星トロヤへ (ハヤカワ文庫JA)

コロロギ岳から木星トロヤへ (ハヤカワ文庫JA)