基本読書

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チーズとうじ虫―― 16世紀の一粉挽屋の世界像 (始まりの本)

ギンズバーグによって書かれた本書『チーズとうじ虫―― 16世紀の一粉挽屋の世界像 (始まりの本)』は1976年に出版された。かつて「国王たちの事跡」しか知ろうとしないといって批判された歴史家とは違い、もっと注目されていなかった、忘れ去られそもそもの存在を知られていなかったような16世紀の「市民」に焦点を当てて書かれた一冊。

基本的に歴史は勝者によって記される。文字を残すのはいつだって歴史の勝利者だった。また中世において生き残った証拠、資料は司祭たちによって書かれ、司祭たちは検閲をコントロールしていたたため信仰の時代であるかのように見える。そうした時代にあって「普通の人々」が何を考えていたのかを知るのはなかなかに困難である。

そうした歴史への抵抗として書かれたものとしては100のモノが語る世界の歴史1: 文明の誕生 - 基本読書 など、モノに注目した世界史などもあるが、本書はいくつかの例外として文字によって残された歴史である。まったく世に知られず人生を過ごし、火あぶりの刑によって死んだひとりの粉挽屋の裁判記録を追っていくことで、当時の経済的活動や子どもたちの生活、彼の参照することができた本やその宗教思想を知ることが出来る。

その男の名はメノッキオといい、1532年から1600年までを生きた。そしてヴェネツィアのモンテレアーレにあるフリウリという小さな町でそのほぼすべての人生を過ごした。前述のように彼の仕事は粉挽屋だ。本書によれば粉挽屋は、産業化以前のコミュニケーション手段がほとんど発展していなかったヨーロッパにおいて、水車小屋や風車小屋を人の集まる小さな中心施設にしていたことから、顔が広かったという。

そうした事情も関係して中世の異端の宗派のなかに粉挽屋が多く含まれ、再洗礼派のうちにとくに多く存在していたのだ。メノッキオが最終的に火あぶられてしまうのも、そうした異端の信仰を持っていたことが原因であったが、ただし彼は特別◯◯派として存在していたわけではなかった。たまたま神を貶めるようなことをいったわけではなく、自分の見解を広め主張への支持を求めたことが彼の立場を著しく不利にしたと見られている。

かなり先鋭的な考えを持った人間で、しっかりと自分の意見を口にするのでこれがおもしろい。16世紀といえどもなかなかに合理的な考えをするし、何より頭が良かったのだろう。そもそも文字を扱える農民が極端に少なかった時代に曲がりなりにも本を読み、そしてその受け売りを喋るのではなく自分自身の考えとして構築していく。たとえば今まで多くの人間が生まれてきたのに処女から生まれてきたやつなんかいない、キリストはまったくただの人間であろうとか。

また聖遺物はわれわれが死んだときとまったく変わらないものであり、崇拝すべきでも尊重すべきでもない。またかれらの肖像を崇拝すべきではなく、天と地とをつくられた神を崇拝スべきだと私は思うと語る。なかなかに合理的ではないか。もちろん無神論者というわけではないが、その信仰にはできるかぎり自身が理解している世界の原理を信仰に適用して合理的な解釈を試みようとする知性がみられるのだ。

謎のタイトルである『チーズとうじ虫』現代 Cheeze and Wormsはメノッキオ自身の発現に由来する。次のような発現である。『「私が考え信じるところでは、すべてはカオスである。すなわち土、空気、水、火のすべてが渾然一体となったものである。この全体は次第に塊になっていった。ちょうど牛乳からチーズができるように。そしてチーズの塊からうじ虫が湧き出るように天使たちが出現したのだ。」』

最初ここだけ読んだだけでは一体全体メノッキオが何を言いたいのかさっぱりわからないが著者がのちのちに説明するところを読むと意味がわかってくる。かびが生じ、チーズの中でうじ虫が生まれるという日常的な経験は、メノッキオが生命ある存在の誕生を説明するときに「神の介入」という事実抜きにして、カオスから生命が自然発生するのだと説明するための比喩である。

インドのある神話の中でも宇宙の期限は牛乳の凝固とよく似ていたり、カルムク族が考えている生命誕生の神話(海水は最初牛乳の表面にできるものと同じようなものでおおわれていて、そこから植物、動物、人間、そして神々が飛び出してきた)との符合もあり、『集合的無意識とか、あるいは容易にすぎるけれども偶然とかいう説明をうけいれない人びとには不安を呼びさます符合である』と著者にも書かれている。

そして何より「特別な事象の介入なしに生命が生まれ得た」のだとする発想は当時にしては驚くほどの科学的な発想だといえよう。

いろいろ読んでいくとこのメノッキオという人物が果たして16世紀ヨーロッパにおいて「普通の市民」であったといえるのかは非常に疑問に思う所ではあるが、まあ僕は歴史家でもなんでもなく、メノッキオが一般市民なのか特異な(平均よりかは外れているのは確かだが、どれほど外れているかの判定が不可能になる)人物であろうと、何ら関係がなく当時の人々の宗教観とその生活を知ることが出来てたいへん楽しかった。

あまり中世ヨーロッパの市民の生活を知りたい人もいないかもしれないが、興味がある人にとってはあまり無い資料だと思うので読んでみるといいだろう。

チーズとうじ虫―― 16世紀の一粉挽屋の世界像 (始まりの本)

チーズとうじ虫―― 16世紀の一粉挽屋の世界像 (始まりの本)