基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

共同生活物の魅力

僕は思うのだけれど、人生においてもっとも素晴らしいのは、過ぎ去ってもう二度と戻ってくることのないものなのだから。──村上春樹『使いみちのない風景』

さくら荘のペットな彼女』という作品が完結した。さくら荘とは高校の寮で、問題児ばかりが集まっているのだがその実態はみな何らかのクリエイターであるということだ。声優志望だったり、プログラマであったり、作家だったり絵描きであったり、ピアニストであったり。そうした彼らが織りなす恋愛や、自身の夢を追いかける道のりが物語になっている。素晴らしい物語だったと思う。どこにも新しい要素がないのに、構成が緻密で棄てキャラクタというものがいっさいおらず、10巻で綺麗に幕を閉じた。

それだけではない。最近『魔法使いの夜』をやって、リトルバスターズのアニメを見て、森博嗣さんのVシリーズを読み返して、高野秀行さんの『ワセダ三畳青春記』を読んで、共同生活ものってなんて素晴らしいんだろう……素敵だ……何がこんなに良いんだろう……と考えてしまった。とにかくどれも僕の琴線にふれる。ふれすぎて僕の琴線を振り千切っていくぐらいにふれる。それはもうふれるなんて感じじゃねえな!

それで、何が良いのかと考えていた。過ぎ去っていく風景。長い人生の中でも、ほんの一瞬しか成立しない奇蹟のような時間、そこからくる儚さ、寂しさ。……いかんいかん、感傷的ポエマーになってしまった。でも突き詰めていくと、やっぱりこうした共同生活もののなかで僕が一番重視したいのは「永続するわけではない、一瞬しか成立しないかけがえのない時間」であることだ。

魔法使いの夜はまだ第一作(全三作らしい)しか出ていないが、魔術師の二人の女の子と山育ちの男の子がひょんなことから山の上にある洋館で共同生活を始める物語だ。この特殊な状況はやはり三人ともそれぞれの特殊な事情によって成立していて、いつ崩壊してもおかしくはない。が、なんとか、その一瞬だけは成立している。振り返れば奇跡的な一瞬だ。第一作目はそこまで恋愛色が強くなく、まあなんか「運命共同体」的に自然な共同生活を行なっているのが、とてもいい。

さくら荘のペットな彼女』では、先ほど説明したばかりだがもう一度。問題児ばかり集められたさくら荘で、クリエイターと(クリエイターの卵)達が寮生活をしながら壁にぶち当たったり恋に悩んだりする。彼らの共同生活が終わりを迎えるのは、高校生だから当然だが卒業だ。いつまでもみんな一緒ではいられない。

森博嗣さんのVシリーズでは阿漕荘と呼ばれるアパートにいる大学生二人と探偵1人、それからすぐ近くに住む無職の天才瀬在丸紅子の4人の生活に現れる事件を描いたミステリ作品。彼らの関係もまた危ういものだ。保呂草という探偵は裏の稼業を持っており、その稼業の特殊事情からあまり長く阿漕荘にいられないことはわかりきっている。

また大学生2人は当然ながら、いずれ卒業して、就職していくことになる。時が経ってもこの場所に残ることになるのは、瀬在丸紅子ぐらいだ。

高野秀行さんの『ワセダ三畳青春記』は物語ではない。ノンフィクションだ。しかし出てくるのは奇人変人なんでもござれ、まともな勤め人など誰もいないワセダ荘。もうとにかくその内容は「破壊」的なありさまで、住んでいる人間は漫画のキャラクタよりもぶっ飛んでいて起こるエピソードはどれひとつとってもひっくり返りそうなものばかり。

チョウセンアサガオを食ってみれば15時間意識不明でぶっ倒れプールにハマれば同年代の人間がみな朝からよるまであくせく働いている中毎日プールで泳ぎまくり、はてはニート同然の仲間たちで社会人チームだらけの大会に出る。いきなり流しの三味線弾きになると三味線を始めたかと思えばそれを客引きとして占い屋台をはじめたり、やりたい放題である。

ああ──でも、そんな生活してみたかった。常に一緒にいるからこそできないこと、起こり得ないことというのはある。特殊な才能が集ったトキワ荘のように、またそれへのオマージュだかなんだかより生まれたさくら荘のように。そこでは起こり得ないことが起こる。人間が始終一緒にいる密着した生活から産まれる創造であったり、事件だったり、生活上の些細な言い争いだったり、恋愛だったり──たとえば通常付き合っても居ない男女が、一つ屋根の下で暮らしたりはしない。

Vシリーズでは夜に4人が集って麻雀をよくするのだが、それが出来るのも阿漕荘という一つのアパート、すぐとなり同士に住んでいるからである。時には花火をし、時には一緒にイベントに出かけ、夜は静かに話しながらコーヒーを飲む。彼女や彼氏、あるいは結婚相手とではなく、微妙な関係の男女が複数人集まってそうした共同生活をつくり上げる。

しかし……だからこそ、それが成立するのは一瞬の期間しかない。たとえば30代の男女がそんな事をしていたら傍から見れば乱交チームか何かかと疑われてしまうだろう(直接過ぎな表現だが)。またそれぐらいの年代になると当然ながら自分の家庭が出来る。それ以前の問題で、サラリーで給金をいただくようになったら共同生活なんて夢のまた夢だ。

無職が集うワセダ荘はそうした「一瞬」とは無縁かとおもいきや当然ながらそんなことない。誰もが三畳の小さな部屋で、学生が入れ替わり立ち代わりくうりょうな荘にいつづけられるわけでもない。そして当人たちがどれだけ時代から取り残されていくように思えても、それが楽しかったとしても、周りの人たちはみな大人になっていくのだ。

 みんな大人になったのだなとつくづく思う。一緒に変な薬草を試していた連中、一緒にコンゴくんだりまで行き怪獣探しをした連中、「河童団」などと称して一緒にプールで遊んでいた連中、ここ野々村荘で大家のおばちゃんや変な住人たちと一緒に珍騒動を繰り広げていた連中、彼らはみな、「子ども」を卒業し、社会の一員となった。
 こちらはフリーライターを自称しながら、実質的にはフリーター同然の身だ。
 みんなして砂場で遊んでいたのに、気づいたら日が暮れて、ひとり、公園に取り残されたのに気づいて愕然とする子どもである。彼らが野々村荘や私を見て羨ましがるのは、公園の砂場やそこでいつまでも無心に遊んでいる子どもを羨ましがるのと心情的には変わらない。

『ワセダ三畳青春記』より。モラトリアム全開の、時間をいくら使っても許され、ただ楽しいことだけしていればOK! という人生は、永遠に続くものではない。ましてや、仲間と一緒になんて。そして家庭を持ってしまったり、そこで恋愛が起こってしまったら当然だが、プライベートが欲しくなる。そんな生活は成立しない。現に『ワセダ三畳青春記』の終わりも、恋愛の始まりである。

だからこそ高校生、あるいは大学生などの一瞬の期間だけ、その後の特定の勤めにも出ず、彼氏彼女の関係や嫁夫といった関係に収束する以前のほんの一瞬の期間──そうした生活が成立するのだ。長くは続かない、特殊な時間。それがわかっているからこそ、読んでいるとどんなに楽しい時を過ごしていても、そこには常に楽しさと同時に儚さが共存している。

Vシリーズも魔法使いの夜も今回再読/再プレイだったのだけど、この関係がいつか終わってしまうことを考えながら読むと、とてつもなく切ない。たとえばVシリーズの面々が4人で麻雀をしている場面でも、寂しくてたまらなくなるのだ。とても楽しそうに麻雀をしている。会話もとんでもなく面白い。しかしここにいるこいつらのこの関係も、後少しなのだなと……。ページをもとに戻し、再度めくればまた現れるが、それは同じ麻雀の繰り返しでしかない。

でもだからこそ、それが過ぎ去って、もう二度と戻ってくることがない風景だからこそ、記憶に残り、素晴らしいのだと思う。まったく村上春樹はいつもぴったりな言葉を持っているなあ。 ※この共同生活物が凄い!! ってのがあったら教えて下さい!! めぞん一刻はのぞく。寮物まで入れると莫大に増えてしまいそうなので微妙。

黒猫の三角 (講談社文庫)

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さくら荘のペットな彼女 (電撃文庫)

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魔法使いの夜 初回版

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ワセダ三畳青春記 (集英社文庫)

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