基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

赤目姫の潮解 LADY SCARLET EYES AND HER DELIQUESCENCE by 森博嗣

すごい。なんだこれは、というのが一読しての第一印象。昨日読み終えて、今もう一度読み返してみたけれど、このすごさはなんなんだろう。

連載作の単行本化だが、そのタイミングでこの作品が森博嗣さんによる「百年シリーズ」の三作目であることが判明し、ツイッターなどの反応をみるに、ざわざわっとなっていたようだ。浮遊工作室 (ミステリィ制作部) 著者HPでも確認できる。僕もまた驚いた。当然タイトルには『女王の百年密室』『迷宮百年の睡魔』と同様に、百年が入ることと思い込んでいたからだ。この時点ですでに引きこまれている。

そしてその内容ときたら──なんといったらいいのかわからないが、とにかく幻想的で、現実と非現実の狭間‥‥というか、そうした境界や区別そのものが無意味になるような、幻惑的な小説である。テーマとしては、同時に一貫して百年シリーズで描かれてきた「生きるとは、何か」という問いかけが、これまた生きているのか死んでいるのかよくわからない人間たちと共に繰り返される。

舞台‥‥というか、モチーフ? 場所? もまた百年シリーズと共通する部分がある。砂で描かれた曼荼羅、一夜にして海が出現した、する地域、人間と、人間だと思い込んでいるウォーカロン(人形)。なんの意志も表象させられないが身体は生きている人間は、生きているといえるのか? 脳が身体と分離した存在は、生きているといえるのか? クロンは? AIで操られているロボットは、人工物だろう。それも生きていない? 

テーマ、舞台、モチーフ、それに名前が、たしかにこれは百年シリーズなのだと感じさせてくれる。ああ、でもこれはまったくの新境地だ。登場人物も一変していれば、その物語形式も一変している。視点が前触れもなく変転し、それでもそれが当たり前のように語られていく。変転、変転、また変転。なんかへんだぞ、これはまったく意味がわからない、と思いながらも四苦八苦して読み進めていくとなるほどと了解されていく過程。

名前の同じ人物が、ある場所では全く違う役割、同じ時間軸で異なる場所に存在し、時間と空間がいかに無意味なのかが表現される。同時に、人の意識、人の身体といったものも次から次へとうつりかわり、意識と身体は切り離されたものとして考えなければならない。空間、時間、意識、身体、そういったものが同一かつ連続したものではないという前提に立たなければこの物語にはついていけない。

そうした視点、時代、感覚の変転についていくのが精一杯で、同じページ数の本を読む三倍の時間をかけてなんとか読み終えた。ああ、しかしこれは──面白かったのか? ときかれれば、面白かったと答えよう。でもそれ以上に、馬鹿みたいなことをいうが、読み終えて一番最初に感じたのは、「なんだかよくわからんが、すげえ」という純粋な言葉にできない驚きだった。

Cという情報を理解するために、AとBという前提情報が必要だという状況がいくらでもある。普通はそうした情報は順番に開示されるが、本書では突然、何の前ぶりもなくCがくる。あれ、おかしい、意味がわからないぞ、と思いながら読んでいるとBとAの情報が事後的に了解されてくる。ただしそれはもっと広い時間的、空間的事象の中ではまた前提情報の欠けたCという情報であるわけで、常に全体の中でこれはなんなのか、という幻惑の中にとらわれているのだが、この了解の過程が最高にエキサイティングだ。読書で味わっことがない感覚であり、だからこそ「間違いなく凄いのだが、かつて味わったことがない体験だからこそそれを表現する言葉がない」のである。

ああ──しかし、これは本当にすごいのではないか? 読んだ人、どう思います? 四季から続く物語として、ついに時間と空間と、それから意識まで含めて、そうした制約を取り払った小説へと転身していっているのではないか、という気がする。S&Mシリーズで一貫して取り扱われたヴァーチャル・リアリティも関係しているかもしれない。『四季』シリーズの中で真賀田四季はこう独白している。

時間の流れには逆らえないと諦めている非力。
なにもしないことが安全だと信じている軟弱。
時間に逆らえないのは、単に躰だけのこと。
物体でできているゆえに、
質量を有するゆえに、
時空を超えることができない。
けれど、
思考は、もっと自由なのだ。
飛躍できる。

女王の百年密室ではコールドスリープを駆使して、定期的に眠りにつくことで通常では考えられない時間を生きている女王と、死ぬ間際にコールドスリープをつかうことで「死んでいない」とする人たちが存在する村が描かれる。そもそもサエバ・ミチルという存在が、躰と意識が分離した実験例の一人だ。躰と意識の分離、それが主に浮かび上がってきたのは『迷宮百年の睡魔』だが本作でついに切り離された意識は空間と時間から自由になる。

四季が独白したようなところまで人類が到達したのか、四季がこしらえたのかはわからないが、その為の壮大な実験室が本書『赤目姫の潮解 LADY SCARLET EYES AND HER DELIQUESCENCE』であるといえるのではなかろうか。『「新しい技術には危険がつきものですが、技術的な試行を継続することで人間は必ず活路を見出してきました。諦めれば、進歩は止まってしまいます」』とは『迷宮百年の睡魔』からの引用だが、そうした技術的な実験結果であるようにも読める。

しかし意識だけで、時間と空間を超越して生きているといえるのか。もう、「ひとり」という認識さえも消えてしまうのかもしれない。自分とあなた、という認識も消えていくのかもしれない。意識も、思考も、現実の肉体だって、いってみればそれは信号の受け渡しの結果にすぎない。身体があることも、考えることも、そうしたやり取りの結果だ。

世界を見て、見たものが外部にあるように認識するから実際にあるように感じる。でも形も、色も、現実に存在するものを脳が読み取った一解釈にすぎない。僕らは脳を通してしか現実を認識することができない、ということは外側にあるように見える現実とは、実際には僕らの内側で表現された結果にすぎない。

本作の色はだから、とても象徴的であると思う。赤目姫がタイトルに冠されているが、他にも色の目をもった特殊なキャラクタたちが登場する。彼らがなんなのか、僕には読んでいてもよくわからなかった。「色」とは、電磁波である。波長の違いが、僕らの目に入ってきた時に強弱と波長の違いを勝手に識別につなげる。人間は極めて小さい360〜400nmから760〜830nmという領域を認識できるにすぎない。色というのは人間の脳がいかに主観的に世界を認識しているかというひとつの証明だろう。

問題はそんなところにはなく。そうした事象を、なんとも見事に小説として書ききってくれたことか。ただ、まあ、こんなに読みづらい小説もなかなかないぞ(笑) 今が誰の視点なのか、どこの時間なのか、場所なのかがシームレスに切り替えられるともはや読んでいる最中にはうまく状況を理解することができない。「あれ、この描写まったく意味がわからないぞ」と思いながら読み進めて、その後の描写で意味がわかったり、まったく意味がわからなかったりする。

とんでも本のたぐいといってもいいだろう。面白いかどうかというと、正直人にオススメする気にならない。でもそういう麻薬的な切り替えにがんばってついていっていると、薬でも打たれたかのように引き寄せられる。複雑で、かと思えば単純で、色とりどりの情報が押し寄せる。迷宮を思わせるメタ構造をもっており、その中で意識は出口を求めるわけでもなくさまよっている。

ああ、でも、これは、傑作だなあ。

「そうなの。どこまでの話かっていうのが、いつも一番難しくて大切なの。どこまでが認めなくてはいけない現実で、どこからは想像、それとも仮定の話なのか。考えていくうちにわからなくなりませんか?」