基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

ガッチャマンクラウズが面白い(五話時点の感想)

ガッチャマンクラウズのアニメが今放送されているのだけど、これが面白い。今年に入ってから見た中で2話を見ようと思えたのはこれだけである(「全部見た中で」だったらすごいかもしれないが、他のものがつまらないわけではなく、そもそもほとんどアニメを見ないから。)

ガッチャマンがなんなのかについては、まったく知識がない。たぶんヒーロー物なのだろう。原作がアニメなのか漫画なのかすら知らない(たぶん小説ってことはないだろう)、とにかくこの『ガッチャマンクラウズ』はSFとしておもしろいギミックがいくつかあるし、ヒーロー物として当然疑問に思うべきところへと切り込んで破壊していく様がみていて爽快で、ガッチャマン抜きにして大変楽しんでいる。

あとキャラクタのデザインがよく、絵をみているだけで癒されるのも素晴らしい。また決めポーズが毎回かっこいいのでとにかく絶賛な僕である。なんだろう、雰囲気的に一番近いのは(ストーリーとかなんにも関係なく)輪るピングドラムなんだけど、どこが近いのか表現が難しい。一点だけ気になるのは(この作品に限ったことじゃないけど)、やたらとテーマに関連する部分を長台詞でしゃべり続けるところだが、これは見ていて恥ずかしい。

できるかぎり細切れにして入れてもらいたいものだけど。三話だったかには総理が辞任するニュースが流れてきて、それに対して「今の世の中複雑すぎて、よほど優秀なリーダーが現れたとしても、それだけでどうにかなるものではない」(だいたいこんな感じだったと思う)と呟く場面があるけど、これぐらいの情報を散りばめることでなんとかならんものなのかな。

一方許される場合もある。たとえばドストエフスキーの小説はお互いがお互いに信じられないぐらいの長台詞をお互いにぶつけ続けるけど、あれはドラゴンボールとかの戦闘を思想で表現しているわけで、つまり長台詞を使ったエンターテイメントバトルだ。

テーマ的な部分を伝えるためだけに「どっちか片方だけが長台詞でテーマを一方的に話す」状況がやっぱり、違和感があるのだよね。こんだけ作りこんであるのになんで台詞だけこんなことになってしまうんだろうと不思議だが、これは本筋ではなく話がそれてしまっていた。

ゲーミフィケーション

ガッチャマンは、たぶんヒーローである。ヒーローはだいたい特別な人間であり、いつも人知れず活躍し、個人か少数のチームで人々を助ける。ヒーローは人々を助けるので、次第にその噂が流れたり流れなかったりしてヒーローへ助けてもらえないかという願望が生まれるようになる。基本身の回りの敵しか倒せないし、同時発生されたら対処できないわけで、ごくごくローカルというか、凄さの割に影響範囲の少ないマイナなシステムだといえる(巨大な怪人とか地球を滅ぼそうとする敵が出てきてスケールはアップするが)。

本作ではそうしたローカルなヒーローへの対比として出てくるのがGALAXというスマートフォン用(違ったかも)のシステムで、個々人がこれに登録すると専用のアバターが与えられて、システム上に自分の存在が投影、動いて人と、メッセージを送り合ったりすることが出来るしニュースの取得、体調が悪くなったときはAIを経由して最寄りの病院検索をお願いできるなど、まあいずれそうなるよね、って感じの仕組みがある(最後に余談を書いている)。

また特別な機能として、自分のスキルなどを登録するのかよくわからないが、Xと呼ばれる人工知能から「緊急時の協力要請」がくるようになる。「付近で事故がありました! あなたの看護スキルは今このときの為にあります! 協力してください!」というように。こうした行動に協力すると、ポイントが加算されていく(個人に加算されているのか、世界平和ポイントみたいな全体のポイントがあるのかはよくわからないが)。

この仕組はとてもゲーム的だなと思った。ミッションを与えられ、それをクリアすることでポイントを得る。ゲームにすればうまくいく―<ゲーミフィケーション>9つのフレームワーク - 基本読書 海外での事例では、家庭の中で「家事ごとにポイントをつけてゲーム内の成長に反映させる」ゲームにより、家事をゲーム化するなどの試みもある。ようはそうやって「現実の課題解決にゲームデザインを導入する」ことを「ゲーミフィケーション」というのだ。

本作ではそれを大々的に「ヒーローではなく、一人一人の人間が自覚を持って現実の課題にあたっていくこと」こそが「世界をアップデートすること」につながるのだとするシステムとして表現させていて、これが面白い。こうした試みは一部の特別な力を与えられた人間が世の人々を救う「ヒーロー」というシステムとは真逆の存在である。

一方これもまた万能ではない。人々はXならなんとかしてくれる、Xがいっているから大丈夫だ、Xの支持にしたがっていればいいんだと、今度は支持待ち人間状態でXのいうことを疑うことがなくなっていっている有様が書かれる。

またそのシステムを運用している側も、過剰にシステム傾斜の視点を持っていて変身ヒーロみたいな時代遅れの産物といい対比になっている。本来であればそのシステムも競合他社を激しく競合させて新しいものを生み出していったほうがいいんだろうけどそうしたところまではさすがに踏み込んで行かない(だからそのシステム管理者はある意味たった一人のヒーロー、あるいは独裁者になってしまっている)。

システムとヒーロー

なるほど個々人が助けあって幸せにいきていけるんだったらそれで幸せな世界になるのかもしれないが現実問題無理だ。このアニメ、おもしろいのは変身ヒーロ物にほぼ絶対いる「わかりやすい悪役」がいないところなんだよね。悪役っぽいのも、一人はいるが、その一人はまた「その星の生物が殺し合いをして勝手に破滅する」のが好きらしく不安を煽るようなやり方で問題を起こす(凄まじくせこいやり方でそんなことやってどうするんだと思うようなしょぼさだけど)。

目下のところ人間最大の敵である癌が、人間が多細胞生物であり細胞を分裂させ増殖させる際に必然的に発生するエラーからくる根源的なシステムに起因する病であるのと同じように、人間同士がうまいことわかりあえない、協調できないのもそもそも人間の身体システムに起因しているといえる。

そこを煽って人間同士を争わされると「ガッチャマン」という明確で巨大な悪意を持った特定の敵がいないとローカルでしかいられないヒーローにはどうしようもない。

人間自体を叩き潰すわけにもいかないし(それをやったらそれはそれで面白いがまったく別作品だ)。まあ、煽ってるやつがいるんだったら煽ってる奴を倒せよ、で解決するだけの話かもしれないが。ヒーローが倒すべき「常識外の敵」が存在しなくなってしまった世界でのヒーローの存在意義が謎だ。

倒すべき敵を倒してしまったあとのヒーローの末路はグレンラガンに見える。ようは不要だし、個々人の間の問題解決には邪魔だから幽閉されてしまうか、最終的には社会から消えるしかない。第五話ではじめて異性人ではなく、災害救助のためにガッチャマンに変身するヒーローが描かれるけど、そこにガッチャマンである必要はあるのか、はたまた人々は公になったヒーローに何を仮託するのか(アイアンマン化するかもしれない)。

ヒーロー間の超克

「なぜ人前で変身しちゃいけないの?」「なんで異性体を倒さなくちゃいけないの?」と主人公であるガッチャマン新人の女の子が現代の価値観でもって「当然の疑問」を過去のガッチャマン達にぶつけて、かつてのヒーロー像を破壊していくところがまた素晴らしい。キャラクタの配置がどれも過剰なのだけど、正しいだけの人間がいないのでがっちゃんこがっちゃんこぶつかっていくのがテンポにつながっているのかな。

ヒーローだけが助ける世界であっては他力本願な世界になるかもしれない。一方システムに依存した世界でも(そのシステムが落ちたり狂ったりしたらどうするんだ)問題なわけであって、この両者が混ざり合っていくところが今後の作品の焦点になっていくんだろうとは思うけれど「みんなヒーローだよ」オチ以外になかなか思いつかないな。バットマンみたいな……。

ガッチャマンは今のところ誰にでもなれるわけでもないからその可能性もないか。人間が争うのは人間が今の人間という身体に縛られているからだよ、アップデートするのは人間存在そのものだよルートにいくとキレッキレだけどもう何度も繰り返されているしこの作品の雰囲気でさすがにそれをやるのは無理か……。

といろいろ想像して楽しんでいるところでした。あとは女の子がたいへんにかわいらしいし、決めシーンは毎回かっこいいし、スタイリッシュだし、ガガガガッチャッマーン!!と音楽が流れながら変身しようとする場面はうっひゃあ!と悲鳴をあげそうになるぐらいかっこいいので僕が書いたようなことは何一つ、関係がなく楽しい(こういうところの楽しさを伝える語彙がまだない)。

※8話時点での感想
ベタ褒めだった僕だが6,7,8話がとんでもなく退屈で、続きを観るのを断念しました。

余談1。ゲーミフィケーションは実際これぐらい大規模に成立するものかな?

ゲーミフィケーションが本作で大いに役立てられているのは確かだが、うーんしかしこれってそんなにうまくいくものかな、っていう気がする。幸福な未来はゲームが創る、では家事を分担する夫婦が、それぞれの家事ごとにゲームのポイントをつけてやっているエピソードが載っていると先ほど紹介したが、僕だったらそんなポイントなんかまったくほしくないから家事もやらないと思う。

要は、これまた問題になってくるのは「ゲームの設計」なのだな、と思う。もちろん現金に変換できるとなれば話は変わってくるが、そうした物がない場合人を突き動かすのは「名誉」とか「承認欲求(名誉と同じか)」とか、あるいは「大いなる目的のために協力している自分」という自分認識だとか、そういう形はないし変換はできないけどたしかに満足感を与えてくれるものだろうと思う。

このガッチャマンクラウズでぼくがあんまり違和感なくこのゲーミフィケーションを受け入れられるのは、やっぱりこのポイントが「大義」に結びついているという点なのだ。「世界をより良くアップデートする活動」に自分がたしかに寄与したのだ、ということが自分に与えられるポイントでわかる。自分一人の行動が、世界を良くしているのだと数値で評価される。

ある意味離れていても群衆化であり、デモに参加していたりライブに参加していたりコミケに参加している人たちと同じようなものだ。一個人の時では考えられないような高揚と、一人ではやらないようなことを突然やり始める。コミケでのオタクの振る舞いとか、通常の場では絶対にありえないようなことをやり始めるでしょ。デモでも声を張り上げるし。

余談2。クラウドからAIへ アップル、グーグル、フェイスブックの次なる主戦場 (朝日新書)

さいきんAmazon.co.jp: クラウドからAIへ アップル、グーグル、フェイスブックの次なる主戦場 (朝日新書): 小林雅一: 本 こんな本も出ている。まあ、新書なので内容はたいしたことないが、ようは企業も「情報の氾濫の中でどうにかして筋道を立てようと頑張っていて、そのうちの一つの解がAIである」という感じ。

ぱっと思い浮かぶのはAppleのSiriだけど、Appleはいずれこれを「グーグル検索より前に、Siriに聞くようにしたい」と考えているだろう。何かおいしいラーメンが食べたい、と思った時にGoogleの検索窓に打ち込むか、AppleのSiriに「おいしいラーメンが食べたいんだけど」と相談するかの違いしかないが(Googleの検索も今はAI)どちらが「最前線」を担っているかが大きく違ってくる。

最前線でユーザと接することができればその後の割り振りも思うがままなので(たとえば嫌いな会社がいたらそいつに割り振らないこともできる)たとえ圧倒的に便利で有効なシステムがあったとしても、それをたったひとりの手、あるいはひとつの会社に渡すなんてリスクがありすぎるわけだ。AIが暴走したら一体全体誰が責任をとるんだ、という問題もある。