基本読書

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作画汗まみれ 改訂最新版 (文春ジブリ文庫) by 大塚康生

もう誰もが読んでいるぐらいの本で、今更紹介も何もなさそうな『作画汗まみれ 改訂最新版』だけど、読んだらたいへん素晴らしく、素敵な一冊だった。ちなみに僕はアニメをほとんどみないのでこの大塚康生さんのことも今回初めて知るぐらいのドシロウト。なにも知らずに読み始めれば、観たことが一度もない、話だけどこかで聞きかじったようなアニメに携わり続けてきたという、アニメ草創期時代の伝説的人物だったようで、驚いた。

何もかも楽しいが、次のような点が特に楽しかった。1.自分が観たことのないぐらい最初期のアニメ映画の裏話(虫プロ東映もない1950年代から始まる)、アニメーターの職場環境、人間関係、宮崎駿さんや高畑勲さんの新人時代の話のような「アニメ草創期の歴史談話」的な側面。2.大塚さんの考えるアニメーターの仕事とは何なのか、「動かす」ことへの追求。3.アニメーターの役割への解説。

3はもちろん1981年(連載時)などの話なので、今とは違うのだけど、他でそうしたアニメーターが実際何をやっているのかといった部分を読んだことがなかったので新鮮。2は、全編を通して「アニメーターとしての職人大塚康生」としての生き様がこれでもかと書き込まれていて、唖然とする。五年生の中学を卒業して、麻薬Gメンになり、その後厚生省職員の試験を受け上京という移植の経歴。26歳にしてアニメーターとして雇ってもらうために、採用も出していない日動スタジオへ押しかけるという度胸からして凄い。

今でも26歳でいきなりアニメーターの門をたたくなんて「夢見がちなおっさんになりかけの青年」といったところで、鼻で笑われそうだけれども、当時のスケッチなどが載っていてこれがめちゃくちゃウマイ。「こんなうまかったらアニメーターなんか余裕余裕!!」と勝手に思ってしまうが、本人は凄まじく謙虚だ。しかし当時はアニメ会社なんてものがほぼ存在せず、当然募集なんてかからないからまともな就職ルートなんかなかったのだから当然か。

そしてまだまだびっくりするのが、アニメーターってほんとにいろいろ考えながら書くんだなあってこと。これは僕が無知すぎたこともある。たとえば「アニメーターは演技者である」が繰り返される持論になっている。まあたしかに実写であれば演技をするのは役者だけど、役者を描くんだったら、描く人はすべてのキャラクタに対しての演技者じゃなきゃいけないよなあと当たり前のことを気付かされたりもする。

極端なことをいえば、一人を演じればいい生身の役者と違ってアニメーターは何人もの役者に入り込んで、その演技をつけてやらなければいけないのでよほど考えることが多い。そして演技者である以上、ひとつのシーンにたいしても無数の解釈をとった上で、選んでいくのだ。

たとえば「ソファーに座っている人」を描くとすると、その人はどんな性格の人か、歳はいくつくらいか? リラックスしているのか、それとも緊張して座っているのか、などを想像してみると無数のポーズが思いつきます。

年齢からくる衰えや、その時の状況、各自の思惑などなどからキャラクタの演技が決まってくる。なおかつそれを「動かす」のがアニメーターの仕事なのだ、という強烈な自負が各所から伝わってくる。既にして伝説的な人物だった手塚治虫さんにさえまったく引くことのないその姿勢に、「どれだけ自分のやってきた仕事の価値を信頼しているのか」という職人としての自負を見た。

それよりも最大の疑問は、手塚先生のことばのはしばしに「動かすだけでしょう?」とアニメーションの技術を甘くみておられるようすが感じられたことでした。「動かす」ことで悩み続けている私にとって、それは納得できるものではありませんでした。

口調は丁寧だが手塚治虫さんとのやりとりの中でもまったく引くことがない。それはやっぱり自分のやってきた仕事にたいしての揺るぎない「自分はそれだけの価値のあるものを創っているのだ」という確信があるからなんだろうと思うのだ。そうした確信をもって仕事をしてる人ってかっこいい。そして面白いのは、読者はそうした大塚さんが「「動かす」ことで悩み続けている私」という通りに、その苦悩をトレースしていくところにある。

架空の生物、たとえばヤマタノオロチなんかが本当に実在したとして、アクションをさせたらどのような動きになるのかといったことを考えて臨場感たっぷりに動かすなんてのは、やはり並大抵のことではない。ただ歩くだけのシーンのような「ふだん誰もが理屈で考えもせずに当たり前にやっていること」こそが、動きで違和感なく表現するのが難しいということもある。そうした一つ一つのアクション、動きについて大塚さんは実によく悩んでいく。

大塚さんの苦闘の歩み、うまくいかない、どうやったらうまくいくんだろうと考えて何度も何度も描いていく歩みは、そのまま、手書きでアニメーションの動きをつくるのってなんて奥が深いんだと、「動かすこと」への深淵を覗きこんだ気にさせてくれる。ああ、アニメーターっていう人種は本当に面白いなあ、この人達の頭のなかはどうなっているんだろう。

本当に小さな小さなディティールの積み重ねの中に快感を見出していく人たちなのかな? サンプル数が少なすぎてよくわからないし、一般化するようなものでもない。宮崎駿監督の引退会見での言葉も、僕は下記の箇所が一番印象に残りました。⇒宮崎駿監督 引退会見(2)「時代に追い抜かれた?」 NHKニュース より

宮崎:監督になってよかったと思ったことは一度もありませんけど、アニメーターになってよかったと思ったことは何度かあります。アニメーターというのは、何でもないカットがかけたとか、うまく水が描けたとか、うまく水の処理ができたとか、光の差し方がうまくいったとか、そういうことで、まあ2〜3日は幸せになれるんですよ。短くても2時間くらいは幸せになれるんです。監督は最後に判決を待たなくてはいけないでしょ。これは胃によくないんです。ですから、アニメーターは自分に合っているよい職業だったと思います。

あとはやっぱりミーハーだから宮崎駿さんや高畑勲さんの過去の話が出てくると喜んでしまう。うわあ、やっぱりこのレベルの人達になると若い時から才能が溢れて人との協調なんかぶっ飛ばしてるなあとか(協調性がないのではなく、自分の中に理屈があるのだ)、高畑さんは最初期の頃からシナリオが膨れ上がってスケジュールを遅延させていたのだなあとか(もちろん一人の人間のせいで遅れるわけではないが)、虫プロ東映すら無い時代の雰囲気とか、どれも知らないことばかりでたいへん楽しい。

なんでもそうだけど、草創期の話って面白い。まだ先がどうなっているのかわからない状況で、何がうまくいって何がうまくいかないのか、そうした諸々を全部自分たちで確かめていける楽しさに満ちている。何もかもが新しい。「自分たちがいま、時代を創っているんだ」っていう感覚が、冗談でも思い上がりでもなんでもなく、とあるジャンルの草創期を支えている人間の間には、ほんとにあるんだよね。