自殺の要因は数あれど、それを防ぐ手段というとぼやけたメッセージしかないのが疑問だった。「生命を大切にね」「生きていてよかった」みたいなメッセージを繰り返し繰り返し、どんなに素晴らしい文章や体験談で述べられても、実際にいままさに死のうかどうしようか迷っている側からすれば、そのへんの標語と同じぐらい無関係じゃなかろうかと。1万の言葉より目の前に存在しているマイナス要因を誰かが強制的に排除してくれというのが一番の望みだろう。
別に「生命を大切にね」と言うなといっているわけではない。一般的な考えではある。死ぬのはいつでもできるのに生き返るというのは今なかなかできないんだから、一回限りのカードを切るには十全に考えたほうがいいだろう。しかしそれをただメッセージとして発するのって、どの程度の効果があるというシュミレーションの元で言ってるんですか? ほんとに効果があるんですか?? ってことだ。
本書は自殺予防因子を探ろうという試みについて書かれた一冊である。その調査対象として、全国でも極めて自殺率の低い海部町という選び、徳島の町を周囲や全国との比較から「自殺を予防している因子は何なのか」を抽出していく。「自殺をした理由」ならば明確に導き出せそうだけど、「自殺が起こらなかった理由」を探すのは、有意な結果を導き出すのが難しそうだ。
しかし実際に自殺率の低い町が存在しているのだからと調査を進めていく。調査過程で当然疑問に思うであろう「人口の少ない町だったら数人の誤差が統計上大きな差になってくるんじゃないの」とか「世間体を気にした操作結果なんじゃないの」とか「高齢者ほど自殺率が高いんだから、平均年齢が高けりゃ高いほど自殺率は上がるんじゃないの」といった素人が考えそうな統計上の差異はあらかじめ潰されている。統計情報の元になったデータに問題があるようにもみえない。
結果、海部町は周囲の町と比べても、全国的に比べても海部町は自殺率が本当に低いことがわかる。あとはそれが「なぜ」達成されているのかだが……。そこからの調査結果は地道な町の住人へのインタビュー、アンケートによって得られたもので、かなり具体的だ。たとえば「人との絆が自殺を予防する」というのはどこで聞いたかまでは思い出せないもののほとんど共通認識としてみんなが持っている考えだと思うが、しかしその「絆って何?? 具体的に何のことなの??」と考えはじめるとひどくあやふやな言葉であることがわかる。
たとえば田舎の緊密な人間関係があれば自殺率が低いのか? 都会にいけば都会にいくほど自殺率は高い? かといえばそんなことはない。実質海部町と隣町のような田舎の町では、人間関係は同じように緊密だが、その間には大きな自殺平均値の差がある。本書は「絆」といっても「いったいどのような人間関係のあり方が自殺率に影響を与えているのか?」を具体的に突き詰めていく為、あの自殺予防についての様々な見方やメッセージといったものにたいしての違和感がかなり解消された。
村人へのインタビュー、調査によって最終的に著者が見出した「自殺予防因子」はおおざっぱにわけて次の5つであるという。『いろんな人がいてもよい、いろんな人がいたほうがよい』『人物本位主義をつらぬく』『どうせ自分なんて、と考えない』『「病」は市に出せ』『ゆるやかにつながる』。だけどこれだけだと意味がわからんな。以下はこの5つについての補足。
2000年時点で総人口2600人あまりの町ということで、もちろん全員が全員の顔を知っているレベルではないけれどそれなりにこじんまりとした田舎である。村社会にありがちな「情報があっという間に広がる」とか「個人情報がないに等しい」とか「ほぼみんな顔見知りでやたらと話しかけられる」という側面もある。実際それが「自殺予防因子」なのかといえばそんなことはない。因子はそうした環境にあってさえ「個人個人の自立した考え」が尊重されているところにある。
たとえば赤い羽根募金で「すでに多くの人が募金しましたよ」といって募金をうながしても「あいつらはあいつらでいくらでも好きに募金すりゃいいがな」と実にそっけない。これ、別に東京なら当たり前だけど均質性が高く何事も他所と協調しなきゃいけない(勝手なイメージを持っている)田舎だとわりと珍しい特性ではないか。相互扶助組織などもあるが、そのどれも強制加入や加入しないことによる受け入れられないといったマイナス要因もない。
村社会にありそうな横並びの精神がないのだ。さらには、町の人は年功序列に縛られない。これまた概ね若かろうが歳をとっていようが、意志あるいはその人物自身の能力が尊重される。かといって都心のように「人は人、自分は自分」と完全に分離がなされているわけではなく、雨が降ってりゃ隣の人の洗濯物をとりこんでやるし、神社や寺やの老人たちの寄合処は無数にあるし、町に新しい人がくればすぐに広まるしと、関係性の維持そのものは行われているのである。
そうした特徴が現れているのが「病は市に出せ」という言葉で、病気だけでなく問題全般を早く人に言え、という意味だそうだ。面白いのがうつに対する扱い方で、「あんた、うつになったんと違うん?早く病院にいって薬もらってき」と平気で会話の中でいい、「○○さん、うつになったんじゃって」と話題に出ればみな即座に「ほなお見舞いにいかなあかん!!」と何人もが押し寄せるという偏見のなさだ(うつの人にそれはどうなんだと思うが)。
海部町は、「助けを求めよ」と言葉によって人をさとすよりも、人が「助けを求めやすい」環境を作ることに腐心してきた。面と向かって言われては意固地になるような輩も、気づけば弱音を吐かされているという、実に巧妙でで高度な策を施している。
ほんと、ここに尽きると思うなあ。これは何も自殺に限った話ではないが、言葉でいくらあーしろこーしろといったって、外野が思いつくようなことは、相談している当人は知っていることが多い。辛い時には周りの人に相談しろと言われたところで、当人だってそんなこと知ってるしわかってるだろう。わかっているのになぜそれをやらないかといえば「やりたくないから」あるいは「やったことでより悪い結果になると想定しているから」しかない。
世の中死にたくなるようなことなんていくらでもある。病気が苦しい、金がない、仕事がつまらない、仕事場・学校でいじめられている、仕事ばかりで時間がない、両親が、恋人が、伴侶が、死んでしまう、振られてしまう、人間関係がうまくいかない、自分がバカだと気がついてしまう。そうしたマイナス要因をすべて潰すことなんて不可能だろう。実際海部町であっても、他の自殺率の高い地域と比べて特別収入が高かったり不健康の人が少ないわけではない。
それでも生きているのは、「これがあるから生きていようと思える」という予防因子、あるいは前向きな楽観があるからだ。自殺するような状況は、おそらくそのバランスが崩れた時に起きる。あるとき道で捨てられた犬を拾う、続きの見たい作品がある、町に自分を気にかけてくれる人がいる、実際そうした極々小さい前向きにさせてくれる要因が、死ぬことを延々と先延ばしさせてくれているような気がする。
だからそうした状況を変えるのって、「あーしろこーしろどう考えろ」といった外野からの言葉じゃなくて実際に環境を変えてやることなんだろうなあ。うつだと言いやすい環境をつくること、いろんな考えの人を許容できる土壌をつくること、問題が起こった時にそれをいっても快く受け入れてくれる人たちが周りにいること。強制するわけでも監視するわけでもない、ゆるやかな繋がりが維持されていること。
環境自体を変えるのはなかなか難しい。海部町も、元々は短期間に大量の働き手が必要とされたことから、一攫千金目当ての多様な人々が流入してきたことからこの特殊なつながりが構築されたのではないかと著者は述べている。そうした元々の成立過程があって、「ゆるやかな、でも繋がっている」という特殊な関係(今だとTwitterなんかまさにそんな感じだけど)ができたのだ。
「だからできない」といっているわけでもなく、本書で少なくとも方向性の基盤は示されたのだから、あとは環境や意識を変えるための手を淡々と一つずつ打っていけばいいだけの話であるように思う。何にでもいえるが「問題を把握すること」が一番むずかしいものだから。
- 作者: 岡檀
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2013/07/23
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- この商品を含むブログ (9件) を見る