基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

考える生き方 by finalvent

極東ブログ の著者による自伝的な本で、これがしんみりとしていて面白かった。人のブログに興味がないので、極東ブログ自体はほとんど読んだこともないのだけど、ワインのつまみに軽い本でも読むか、と思って読んだらいい具合に力の抜ける本。英語学習や大学院での学問への挫折、テクニカルライターとしての何度もの転職やフリーランス化、結婚に難病の発生と人生の苦難とメインイベントがひとしきり揃っているようなところを淡々と描写していくのが地味で面白いのだ。

どうも呼吸して日々を過ごしていると自分って将来どうなるのかなあって考えたりする。とくだん何か成し遂げたいことがあるわけでもなく、自分にも親にも借金はなく、現在時点で充分幸せすぎてどうしようかと悩んでしまう。別に結婚しているわけでもなければ、結婚しなければならないとも思っていない。

これが結婚して子どもがいて、借金があって将来にある程度は成し遂げたいことがひとつでもあるというのだったら、養っていくためにある程度は仕事をして、成し遂げたいことのためにステップを踏んでいくんだろう。目標を持つことによって未来はどんどん限定されていくのである。しかしそうした重しが一切載っていないので、はっきりいってどこにでもいけるしなんだってできる。

突然結婚するのかもしれないし突然旅に出たくなるかもしれないし突然難病になるのかもしれないし車に跳ねられて死ぬかもしれないし腕とか足とかが吹っ飛ぶかもしれないし精神を病むかもしれないしアル中になるかもしれないし……。といろいろ可能性を考えてしまって、自分のこともよくわかんないし、どうにも自分が50、60になった姿が想像できない、できなかった。

しかしなんだかこの『考える生き方』を読んでいたら「きっと此の先の30年40年でいろいろあるのだろうけれど、都度都度なんとかなるんだろうな(あるいは死ぬんだったら死ぬんだろうな)」と実によく、腑に落ちてくる感覚がある。理解されるというよりかは、じんわりと経験させられていくというか。あまりにも著者の狙い通りで少ししゃくではあるものの、

普通の人が世の中に隠れて普通に生きていく。普通でなくてもいい。世の中に評価されなくてもいい。とるに足らないことであっても自分の人生の意味合いを了解しながら生きていくことはできる。誰でもそういうふうに生きていくことはできる。

と書くはじめの文章通りの内容が最後まで読み終わって腹に落ちてきてしまったのだ。「何者にもなれなかったなあ」とちょっとショックに思ったり、体調がだんだん良くなくなってきたり、髪の毛が禿げてきたりしていろんなことにぼやいている50代の自分がイメージ出来てしまったともいえる。まあ、そのイメージ自体は本書を読む前からずっと持っていたものだったけれど。

何者にもなれなかった、と人が漠然としていうときの何者かというのはなにかいっぱしの人、他者からの評価を受ける人といったイメージだと思う。何か大きな仕事をなすとか、学問上大きな仕事を成し遂げるとか、そんなところだろう。もちろんそれができたらいいだろうけれど、でも達成するためにはやはり充分なエネルギーが必要だろうと思う。

僕はずっとそれが疑問だった。何者かになりたいと思って費やすエネルギーをただ自分が幸せになるために使えば、何者にもなれなかったとしても、自分を幸せにすることはできるんじゃないかと。別に大きなことをなす、なさないに限った話ではない。世間一般で「幸せ」とされていることへと背を向けても、そのエネルギーを別の、よりマイナなところへ向ければ効率的に幸せになれるのではないかと。そして充分に自分を幸せにできるだけの地盤ができれば、その余った分を周囲の人に分け与えていけばいいじゃないか。

そう考え始めてから「いかにしてひとまず自分だけを幸せにするか」をコンセプトにして日々の行動と考え方を決定してきた。それには成功して、今は充分幸せになってしまった。だからこれからは自分以外の人を幸せにできればと思う。「何者かになる」「他者に評価される」といった考えを辞めるだけで可能になること、幸せにできることは随分たくさんあると思う。そんなようなことを本書を読んで改めて考えた。

考える生き方

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