守り人シリーズや獣の奏者などで知られる上橋菜穂子さんが幼少期から作家になるまでを語った一冊。インタビューアーにたいして語る形式のせいか、上橋さんの物語に対すること、生きることそのものへの姿勢、それに優しい……というよりかは他人を受け入れるキャパシティが圧倒的に広い人柄が、物語にたいする真摯な態度が、ぞんぶんにあらわれていてすごくイイ一冊だった。
ひとつ強く実感したのは上橋菜穂子さんというのは経験、観察してきた作家なんだなあということ。ほんの子供の頃の他愛もない一コマが、上橋さんにかかると物語の中のいちシーンになって蘇ってくる。たとえば竹刀を友人から譲り受け、部屋の電灯にヨーヨーを吊るして突きの練習をしていて親に「おだつな(調子にのるな)」と怒られたなんてちょっとほっこりするエピソード。
強さに憧れること、それ自体は悪いことではないでしょう。
でも、戦いたい衝動に任せてふるまえば、どうなるのか。そのとき、私は、傷つく相手のことをどう思っているのか。そして、傷つくかもしれない自分のことはどう思うのか。
あのとき、身の縮む思いをして実感したことは、いまも私の中で、ひとつの戒めになっています。
こうしたエピソードを引き合いにだして、守り人シリーズや、獣の奏者などのシーンにどう影響を与えているのかを教えてくれる何箇所かあるのだけど、そうした実感のこもった場面の数々は、どれも上橋さんが実際に体験されてきたことだったのだなあと思う。闘いのシーンすらも、古武術の道場に自分が通った実体験からきているのだという。確かに読んでみると、とても実感のこもった描写なんだよなあ。
こうしたエピソードや作品について語る箇所を読んで、あらためて獣の奏者を読み返してみた。ファンタジー世界にも関わらず、たしかにそれがひとつの現実に感じられる感覚っていうのは、こうした一つ一つの上橋さんの実体験の確かさによっているのだなあ。なんてことのないワンシーンでも、やけに情感たっぷりに情景や、周りの人々の反応が書きだされていて、細かい描写や想像じゃ絶対に書けないような描写が多い。
上橋さんのおばあちゃんが、子供を何人もなくしていたときの体験談である「家事をしていて、ふっと、着物の裾に子どもがまとわりついているような気がして、裾を見るけど、誰もおらん。そんなことが何度もあった」なども作品の中に生かされている。そんなこと、自分で体験したのでなければなかなか想像したところで書けないだろう。普通に読んでいたら気づき損ねてしまいそうなそうしたさりげない描写の数々に、上橋さんが蓄えてきた実体験があるのだ(おばあちゃんの話は実体験じゃないが)
といったところで、「体験したことを物語に昇華する」というのは誰にでもできることではないのだろう。なぜなら同じ場所にいて同じことをやっていても、そこから何を感じ取るかはひとによって大きくことなるからだ。それは観察力に起因している。どこをみて、何を覚えていようと思うのか。見た事象から、推察できることはなんなのか。自分が見たことじゃなくても、人が話してくれたことからいかに多くのことを推察し、情報として得、記憶するのか。そうした観察力が、上橋さんは飛び抜けているように、本書を読んでいると思う。
つらいことに出会ったときは「いずれ作家としてこの経験が役に立つ」──いつも、そう思っていました。
作家の性というのは、妙にしたたかなもので、愛犬が死んだときも、悲しくて悲しくて涙が止まらないのに、その悲しみを後ろから傍観者のように見ている自分がいたりするのです。
この悲しみは、いったい、どういう悲しみだろう。
愛犬は、いま、どんな匂いがしている? 周りの人はどうしてる?
デッサンをするように記憶に留めておこうとしている、とてもとても冷静な傍観者の自分がいるのです。自分がどうにかなってしまったんじゃないかと思うような、身も心も吹っ飛ぶような恋をしているときも、その自分を外側から見ている自分がいるのです。
同じものをみていても、こんなふうに常に考えている人はおのずとフォーカスする箇所が異なってくるだろう。そうした細かい視点の違い、観察力の活かし方こそが、上橋さんの書くファンタジー小説の世界が「まるでほんとうにあって、そこで人が生きているように感じられる」ことのコアになっているのだと、本書を読んでいて思うことしかりだった。
- 作者: 上橋菜穂子,瀧晴巳
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2013/10/16
- メディア: 単行本
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