基本読書

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学問のすゝめ (岩波文庫) by 福沢諭吉

新訂 福翁自伝 (岩波文庫) by 福沢諭吉 - 基本読書 ここで絶賛していたのだからこちらも紹介せねばなるまいて『学問のすゝめ (岩波文庫)』。といっても今回初めて読んだのだけど。不勉強なり。ただこれを日本語で読めるのは素晴らしい体験であった。日本語ネイティブであることを感謝したくなるような、力ある日本語の文章にただただ感服させられた。

文章から受けるイメージは苛烈の一言であり、言い過ぎもせず言い足りもせず必要なことを必要なだけ書いているシンプルさがある。それでいて人間存在における原理原則を語っていくさまは切れ味が良すぎて、切られたことにも気づかないような鋭さがある。もし読んだことがなければ、最初の9ページだけ読んでもらいたい。そこまでが学問のすゝめにおける初編であり、一冊通していっていることのこれ以上ないほどの要約になっている。他人から強制されたわけでもなく、個人的な欲求にしたがって本書を読める人間は幸いである。この福沢諭吉の文章を自発的に読んで学問をすることの意味を悟らない人間はいないであろうから。

有名な『天は人の上に人を造らずと言えり。』から始まる文章だが、凄い始まり方だよなあ。天と人、そして人と人との関係における「原則」からざっくりと切り込んでいく。よく「だから人間は平等である、といっているのではなくて、それでも差がつくのは勉強したか、していないかの差だと福沢は言っているんだよ。」としたり顔で続きを解説される場面がある。もちろんそのとおりだ。福沢はだから人間は平等だなどとうたっているわけではない。

そして「勉強したか、していないかの差だ」で終わっているわけでもないのだ。その後怒涛のごとく「学問をするとはどういうことか」について語っていって、「勉強をしろ」とだけ言っているだけではない。人か聞き、「そうかそういう意味だったのか」と勝手に了解し、そんなところで止まっていては本当に面白いところを読み逃している。

学問とは、ただむつかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を創るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。これらの文学も自ずから人の心を悦ばしめ随分調法なるものなれども、古来世間の儒者和学者などの申すよう、さまであがめ貴むべきものにあらず。古来漢学者に世帯持の上手なる者も少なく、和歌をよくして商売は巧者なる町人も稀なり。これが為心ある町人百姓はその子の学問に出精するのを見て、やがて身代を持ち崩すならとて親心に心配する者あり。無理ならぬことなり。畢竟その学問の実に遠くして日用の間に合わぬ証拠なり。されば今かかる実なき学問は先ず次にし、専ら勤むべきは人間普通日甩に近き実学なり。

福沢が短い本書の中で繰り返し繰り返し述べているのはこの学問の本意は読書、つまりはインプットのみにあるわけではない。精神の働き、インプットしたことをいかに活かすかにありということである。言葉とは大工が持っている道具のようなもので、それの名前を知っているだけでは家は建たないのである。道具=言葉は家(学問)を打ち立てるための道具であり「読む」ことは道具を揃えることにすぎない。

学問をするには分限を知ること肝要なり。人の天然生れ附は、繋がれず縛られず、一人前の男は男、一人前の女は女にて、自由自在なる者なれども、ただ自由自在とのみ唱えて分限を知らざれば我儘放蕩に陥ること多し。即ちその分限とは、天の道理に基づき人の情に従い、他人の妨げをなさずして我一身の自由を達することとなり。自由と我儘との界は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。

この自由を説いた短い文章はJ.S.ミルの『自由論』におけるもっとも本質的な「自由とは何か」についての優れた要約になっている。自由論 (光文社古典新訳文庫) - 基本読書古典というのはそれだけの期間残ってきたから古典なのであり、お札になるにはやはりそれだけの人を動員させた力がある。古典は細かい現代との差異を捉えられないかもしれないが、研ぎ澄まされた抽象的な言葉は数百年の時を軽く超えて人間に作用を及ぼす(福沢諭吉の文章は別に数百年経っているわけじゃないが)。

学問のすゝめ (岩波文庫)

学問のすゝめ (岩波文庫)