異様な、というのが全体を通して読み終えた時の第一印象だった。華竜の宮 - 基本読書 の続編にあたる本作だが、いずれ必ず訪れる溶岩噴出による成層圏までばらまかれる粉塵によって太陽が届かなくなる地球という「終末」に向かいつつある人類の、右往左往、あるいは抵抗、本質的なダメさからくる闘争やカタストロフ、それでも希望を失わず未来を、夢を見据えて生きようとする生き様を描いていく。上田早夕里作品の集大成かつその先へ進んだ傑作でもあるので、読み続けてきた人間はなおさら感慨深いものがあるだろう。
担当編集、かどうかはわからない塩澤さんがこんなことをTwitterでつぶやいていて
『天冥の標Ⅶ』をお読みいただいた方へ、水を差すようで恐縮ですが、『深紅の碑文』のほうが凄いと思います。ぜひ。『天冥』はまだ完結していませんから。8巻からいよいよ本篇突入という感じだと思います。
— 塩澤快浩 (@shiozaway) 2013, 12月 20
おいおい、天冥の標Ⅶ、めちゃくちゃ凄かったぞ。それより凄いのってちょっと想像がつかないんだけど、と思いながら読みはじめたのだが、たしかにこういいたくなるのもわかる凄さだった。壮絶、というのかもしれないが。ただやっぱりこういう無意味な謎の尺度による「どっちが凄いか」な話題って、たとえ担当編集だとしても、両作家にとって失礼な態度だと思うなあ。本作、続編とはいいつつも、華竜の宮にてこの世界の行末はある程度明示されてしまっている。故に本作は結末が知っている人達に対し、「結末の決まっている場所へ人類がどう辿り着くのか」を描く物語なのだ。
陸地の大部分が水没した25世紀。人類は残された土地や海上都市で情報社会を維持する陸上民と、生物船〈魚舟〉と共に海洋域で暮らす海上民に分かれて文化を形成していた。だが地球規模の危機〈大異変〉が迫る中、資源争奪によって双方の対立は深刻化。海上民の一部は反社会的勢力〈ラブカ〉となって陸側の船舶を襲撃、国際的な非難を浴びていた。外務省を退職して支援団体の理事長となった青澄誠司、元医師にしてラブカのカリスマ的指導者ザフィール、困難な時代になお宇宙開発を志す少女・星川ユイ──絶望的な環境変化を前に全力で生きる者たちの人生を描ききり、日本SF大賞受賞の姉妹篇『華竜の宮』のさらなる先へ到達した日本SFの金字塔。──深紅の碑文 上:ハヤカワ・オンライン より引用
とにかく、絶望的なほど、様々なことがうまくいかない。大異変に備えて人類は様々な策を講じていくが、陸上民と海上民との間の摩擦は強まるばかりで一向に和解へと進む気配がない。未来に希望を託すために人工知性体と人類の文化の証を無人宇宙船に積むプロジェクトは、そんなことをして何になる、現場で苦しんでいる人間へ使えとある意味では正論を吐く人間によって、妨害を受ける。太陽が届かなくなる事態へ備えて太陽エネルギーを使わない形でのエネルギー産出を考えなければならない。一般市民レベルでも、大異変へ向けての資源の獲得はどんどん難しくなっていく。
前作から読んでいる人間はわかるだろうけれども、人類が滅亡するかどうかの瀬戸際だというのに、暴力、闘争はやまない。いやむしろそんな状況だからこそ化。限りある資源、到底全員が助かるわけにはいかない状況なのだ。今こそ人類をひとつに! などといって協力してことにあたるような感動的な話ではない。人類存続の道はただひたすら血にまみれている。真綿で首を締め付けられるかのようなじわじわとした苦しさがつのっていくのだ。その執拗な「絶望」の書きっぷりが本書を一読して「異様な」と感じた理由である。
それも書くスケールが半端じゃなくデカイ。社会はすべてつながって出来ている。経済は戦争をその原理の中に組み込み、闘争は金に変換される。誰かが憎い、あいつの金を奪おうなどという単純な原理ではもはや動いていない。かといって金がすべてを支配するわけではなく、金で動かない個人のちっぽけなプライドが状況を撹乱する。夢を見て宇宙船を飛ばす人間も、決して夢だけで飛ばすことが出来るわけではない。誰かが何かをやろうとするとそこにはすかさず、その動きを阻害する動きが入る。金を集め、理解を得なければいけないのだ。
すごいのは、そうした「うまくいかねー」状況をそれぞれの組織ごとに書ききってみせた点だ。本作はあらすじにある通り、3人のパートにわけられている。陸上民として海上民のことを考えながら必死に異質な文化を統合していこうとする青澄。ラブカとなって自分のコミュニティの為に陸上の輸送船を狙う人を殺す海上民ザフィール。宇宙開発を目指し人工知性体と人類の文明を宇宙へと飛ばすために奮闘する星川ユイ。
明確な期限を目前とした時に初めて人は自分のやりたいことを逆算的に認識するようになるのかもしれない。できることなら、ずっと生きていたかったと思う人も多いだろう。が、それが無理だとなったときに、何をどうするのかは人それぞれに違うはずだ。世界が終わろうとしている時にこそ、それらがどう成り立ってきていたのか、どのようにして生きたいのかが見えるのだろう。上田早夕里さんはそれを、個人のレベルだけでなく人類のレベルで書ききってみせた。
暴力や悪意だけが世界のすべてでは、ない。月並みな言葉だが、たとえ未来が滅亡に向かっていたとしてもそれでも尚子供を産む人間がいるように、そこには希望を持つ人間がいる。ユイのように人工知性体を送り込むことに全精力を注ぎ込む人間がいれば、海上民と陸上民といった異文化を異文化のまま受け入れられる環境を創るために青澄のような人間も。三者三様の立場があり、三者三様の考え方があり、三者三様のやり方がある。もちろんそれ以外の人々にはそれ以外のやり方がある。
どんなに血塗られた世界であってもそこには未来を夢見て希望を見出す人間がいる──、凄惨な状況を書いてみせるからこそ、逆説的にそんな状況下でも希望を見出す人間の力強さが光り輝いて見える。一言で言えば「人間って、すごい」だ。いや、人間ってすごいな、ほんとに、とそれだけが言葉として出てくる。
想像力について
ここからは個々のテーマ部分について書いていこう。いくつかあるが、まずは一貫して重要になってくる「想像すること」についての話だ。想像すること。たとえば異なる文化を持った、異なる環境で育った人間が何を考えて行動しているのかを想像することができなければ、和解になどいたることはできない。金を望んでいるわけではない相手に金をわたしてもムダなのだ。相手が望んでいるのはただ生活の安定かもしれないし、こちらに干渉しないこと、かもしれない。
またロケットに人工知性体を載せ宇宙へ送り出そうというユイは、自分が熱烈にその夢を追いかけているためにその夢を理解しない人間のことがなかなかわからない。自分がより強く信じるようになればなるほど、それがわからない人間の気持ちを想像することが困難になっていく。ユイは「広報」という立場で反対派の人間にどうやって伝えるのかを考えていくうちに、反対派の気持ちを考え、想像し、対話を進めていくことになる。それはタフネスを必要とする仕事だ。
結局言葉などというものはあやふやなものだ。うんこといったところでそれ自体がうんこなわけではない。戦争、といったところでそれは人間が争っている状況をなんとなくぼんやりと、指でさしているようなものでしかない。当たり前だが、言葉は実態とイコールではないのだ。そうした曖昧なものを使ってお互いに話をし、交渉をしようというのだから本当に合意形成を経ていくには、その「あやふやな部分をすりあわせて」いく必要がある。本作では青澄を通して、その非常に厄介な問題を執拗に書いていくことになる。
話が若干(意図的に)それた。想像力が必要とされる場面はまだまだある。たとえば未来を想像すること。「大異変」とは、数日後にくるような類のものでもない。数十年後にくるが、いつくるか正確なところはわからないといったもので「そんなに人間は先のことを想像して考えられるのか?」という疑問を引き起こす。もちろん原発の問題や技術開発、環境の維持など通常時から数百年先を考えなければいけない事態は多い。科学者というのは唯一それを常に考えている人たちだろう。
だが全員がそんなに先のことを想像できるものだろうか? 自分がとっくに死んでいるときのことについて備えられるだろうか? というとこれがなかなか難しいだろうこともすぐに想像がつく。東北大震災の時、津波があの高さまでくることは既に調査からわかっていた。それでも対策をとることができなかったのは数十年数百年といったスパンで起こる事態への危機感が足りなかったからではないのか。結局のところ自分にとって都合のいい方向へと想像力というのは発揮されやすいものであり、それもまた人間の本質の一部なのだ。
そうした人間のどうしようもない本質の部分まで執拗に書いた結果が本作の異様さの根源である「絶望」につながっている。しかしそうした絶望を書くことも、また想像力の一部なのだろう。明るい未来ばかり想像するのは楽しいかもしれないが、暗く絶望的な未来を想像しなければそれに対処することさえ出来ない。ありえるかもしれない可能性を想像し、悪い方向は避け、できるかぎり良い方向へと自分たちの現在を方向づけることは想像力の機能のひとつだ。
人工知性について
華竜の宮から特徴的だった人工知性体と人間とのやりとり。その後短編でも何度かテーマになってきたが、上田早夕里さんが書こうとしていたのは、こういうことだったのかというのがようやくわかった。人類と人工知性との相互作用、人類が使う道具としての人工知性であるがゆえに、これはもはや人類の一部になっている。感情を自身が持つことがなかったとしても、感情をタグ付けし適切に使用してみせる。「プログラムで組まれて反応しているに過ぎない」のだが、しかしそれは感情を理解していないことにはならないのだと。僕は本作の最後の方で唯一、この人工知性体の到達点の描写で泣いてしまったところがある
コーヒーを入れる物語
華竜の宮のラスト、アシスタント知性のオリジナルマキははじめてコーヒーを青澄に淹れることを許可される。それまでは「自分で淹れるのが一番楽しい」という理由で、アシスタント知性体にはそれを担当させなかったのだ。それは人間とアシスタント知性体は別物である、とする考え方から生まれてきていた感覚なのだろう。無駄なことに喜びを見出す、その感覚が。
最後にマキにたいしてコーヒーを淹れることを許可したとき、青澄はこう語っている。『「おまえのコピーが紫豆の挽き方を覚えて宇宙へ行く──と考えたら、とても愉快な気がしたんだ。どこかで異星の知性体と遭遇したら、地球には昔こんなおいしいものがあったんだって、教えてやってくれないかな。理解してもらえるかどうかは、わからないが」』
『深紅の碑文』でも印象深い場面で何度もこの「コーヒーを入れるアシスタント知性体」というイベントが発生する。華竜の宮ではラストに至るまでアシスタント知性体には教えられなかったこの「コーヒーを入れる」という知識が、深紅の碑文では既に最初から教え込もうとしているのはなぜか。青澄のアシスタント知性体に対する意識が、華竜の宮のラストから変容しているからだろう。「物語を通してアシスタント知性体を成長させる」という方向性へ。
コーヒーを入れる、というただそれだけの動作にしてもそこには個性と、それに付随する物語が生まれる。オリジナルのマキがコーヒーの淹れ方を覚えたまま宇宙へと飛び立っていったように、アシスタント知性体を通して青澄の物語は生きていく。最後アシスタント知性体であるマキが辿り着く地平というのは、こうしたコーヒーの淹れ方を筆頭とする「青澄の物語」を受け入れていった結果だ。それが具体的にどういうことなのかは、本作を読んで確かめていただきたい。
まとめ
人と技術の関係性、滅亡に対して人類がいかに希望を見出し、行動していくのか。人類が夢をみ、未来を想像する力について、経済や戦争、政治が複雑に絡み合った歴史の描き方、異なる種族とどう対話を続けていけばいいのか……そして人工知性体と、人間との関係性。およそ今までの上田早夕里さんが書いてきた作品の集大成でありさらにその先へ進んでいるという意味で、ときに不満を垂らしながらもずっと読んできたことが、本当に素晴らしい体験になった。特に人と技術の関係における解答は、誠実なものだと感じた。どんどん広く、深くなっていくという意味で順繰りに読むのが楽しい作家だ。
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ルーシィについて
深紅の碑文を読みきってひとつ確信したことがあるのだが、これは第三部があるな、ということ。なぜならルーシィの部分があきらかに取りこぼされているからだ。もしルーシィのような「いずれ人間へと戻る可能性をもった変異した人類」を出すのだったら、それはどこかで拾い上げられなければならなかっただろう。これじゃあ「銃が出たのに一度も火を吹かなかった」小説になってしまっている。いずれ書かないのだとしたら、設計の段階でも実装の段階でも削除されていなければおかしい。
きっと第三部ではこのルーシィが人間へと変異する時代が描かれるのだろう……ってそれ完全に「あなたの魂に安らぎあれ」じゃん!! アシスタント知性体は帝王の殻だし!! でもめちゃくちゃ読みたい。未来編があれば探査船の運命も描かれるだろう。「確信した」とか言ってるけど、これただの僕の願望だったね……。願望丸出しで想像力を都合のよい方向にしか発揮してなかったね……。本作で言ってること全然わかっていなかったわ……かと思えばそうでもなく、そういう思い込みをしてしまうことまで含めて人間なんだからそれでいいんだ(それでいいのか)。