基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

弱いつながり 検索ワードを探す旅 by 東浩紀

言ってることは単純で、偶然に身をゆだねることで情報の固定化を乗り越えようということ。日頃漫然と同じ生活を送っていると、いくら大量の情報を取得できるネットがあったとしても「検索ワードが固定化」されてしまう。検索した情報しか得られないのだから、そこから広がっていくことはない。なので現実を旅したりして、否が応でも新しい情報に触れる、偶然性の中に身を委ねることによって新しい検索ワードを探そうという。160ページ弱だが、残りの部分はこの主張に自身の体験談メインで肉付けをしていくだけで、ツイッターにでも投稿すればいいんじゃないですかねという内容だ。

別に書いてあることが間違っているとは思わない。結局人間何かを変えないと変わらないわけで、会う人を変えるか居る場所を変えるかといった身体的な変更が思考の変更につながってくる。東浩紀さんは三十代半ばから批評家という肩書をあまり使わなくなった理由として、体力的に現役ではいられないからと述べている。大量に読み、大量にゲームをし、アニメをぶっ通しでみるといった体力を使うインプット作業ができなくなったからだという。それはまあ仕方がない部分ではあると思う。でもだからといってわざわざ旅をする必要があるのか? 目の前のことでもよく見ていけば普遍可能な事実がいくらでも見つかるんじゃないの? 

家の庭仕事をしているだけでも生態系のサイクルが繰り返されていく。落ち葉を拾いながら物事の仕組みについて考えていく。日々の日常のサイクルから発見を見出し、日常から外れていくことが僕は充分に可能だと思う。毎日通う通勤・通学路を、ちょっと変えてみるだけでもそこにはなにかが起こるのでは? でもまあゆるく観光にいくのも悪くはない。ゆるくの部分と旅の部分を抽象化して他の事象にも読者の側から積極的に当てはめていく本としてみれば、良い本だと思う。

でも一方でこんなぺらっぺらな内容の本を作っちゃって、東浩紀さんはほんとうに大丈夫なのか? と他人ごとながら心配になってしまった。体力がなくなったから旅行にいくようになったとかいってないで地元で空手でもなんでもはじめて、単純に体力をつけて、少しでも体型をなんとかするほうがいいのではないだろうか。体力がないからこそ旅にいくようになった、それはまあいいのだけど、単純に体力をつければいいだけの話にも思える。そしたら全盛期とはいわないまでも身近な行動範囲と作業への集中度もあがるとおもうけど。『クリュセの魚』とか、凄く面白い世界観と出だしだったのに、途中で力尽きたかのように尻すぼみ的におわらせられてしまったようで(最初からあの終わり方を考えていたのなら完全に考え違いだけども)体力増強したらガッツリとああした作品にも取り組んでもらえるんじゃないんだろうかという期待がある。

僕自身留学をしたり、海外を放浪したりした時にいろんな国の人間にあって、会わなかったら考えもしなかったであろうことを考えるようになったので、旅行に行くといった形で偶然に身を任せるのが間違っているとは思わない。そして重要な「弱いつながり」という視点の提供も良いと思う。しかし過剰な旅行押しと自分の旅行体験談をこれでもかと入れてくるのには正直違和感しかなかった。もちろん旅行での事象を抽象化すれば他の事例にも当てはめられる内容になる、それはいいけど、だったら最初から旅行で書かずに抽象的に駆けばいいんだよなあ。

ひどく薄っぺらくはあるんだけど、今はコレぐらい薄い方が売れやすいのかもしれない。みんな長い本で内容が詰まっている本なんか読みたくないのが本音だろうから。一番いいのは薄くて内容が詰まっている(新しいもの)だが、分厚くて内容がスカスカの本よりかは、薄くて内容がスカスカの本のほうがマシだ。ファンなら楽しめるだろうと最初に書いたのはそういうことだ。ただファンだとしても紙の本で買うと高いね。

弱いつながり 検索ワードを探す旅

弱いつながり 検索ワードを探す旅