これは素晴らしいと思ったがちょっと難しい本だ。内容が難解なわけではなく、これを受け取ってどう判断したらいいのか難しいという意味で。本書の主張自体はむしろ明確であり、シンプルであり、非常にわかりやすいものだ。「我々の環境は殺菌されすぎており、免疫系は本来立ち向かうべき敵を失った状態にある。そして、本来立ち向かうはずだった敵を失うと、免疫系は異常を起こしてしまうのである。」ということだ。異常とは主にアレルギー疾患のことで、あまりにも綺麗にしすぎて、細菌とか寄生虫を排除しすぎたせいで敵を失った免疫系が暴走した結果が我々のアレルギー疾患なんじゃねーの? という話。
人類史の中で我々は常に寄生虫や微生物と共に生きてきた。かつては先進国では根絶やしにされてひさしいピロリ菌にも感染したし、結核菌にも感染しただろう。水の中には土壌の細菌が無数に入り込んでいたし、人間の免疫系は発展し、常に戦いを続けてきた。ところがこうした原初的な環境では、花粉症や喘息、特定の食べ物に対するアレルギー、アレルギー皮膚炎のようなアレルギー疾患や自己免疫疾患は起こりにくいものだ。これは何も微生物や、寄生虫がアレルギーや自己免疫疾患を治療していたわけではない。この場合はむしろ、微生物や寄生虫に常に関わって、免疫系が想定通りの働きをしていたからこそ、こうした病気の発症を防いでいたとみるべきだろう。
花粉症や炎症性腸疾患は最初、富裕層にて発生した。日本で「発見」されたのは1964年のことだ。それまでは存在しなかったわけではないのだろうが、そこまで目立つ存在ではなかった。それが今では花粉症はありふれた病になっている。僕も花粉症だし、アレルギー皮膚炎でもある。幸い食物エネルギーはないが、まわりには食物エネルギーや喘息の人間も大勢いる。花粉症の原因は日本のスギの植林と関連付けられて、スギの植林の結果であると説明されることが多いがこれは日本だけの問題ではなく「先進国(というより富裕層の)」で共通的にみられる傾向である。
アメリカやヨーロッパ、日本や各国の富裕層が生活している場所は環境が非常に整っており綺麗だ。できるかぎり清潔にされ、殺菌され、無菌こそが良いものだとされている。しかし喘息も花粉症も増加傾向にある。これがたとえば平均的な日本よりはるかに汚いアフリカの農村に目を向けると、喘息も花粉症も存在しなくなってしまう。何倍も汚い環境なのに。2000年代前半の調査にて、農家の子供たちのアレルギー疾患有病率が同じ地域の非農家の子供の三分の一であること、さらには農家の中でも農業への関わりが鵜飼ほど有病率が低いことから「農場効果」があることを科学者も認めることになった。
本書の原題は「AN EPIDEMIC OF ABSENCE」だが、不在となっているのは「寄生虫やウィルス、微生物」といった「不潔なもの」とされるもろもろのことだ。我々はこれまで、寄生虫や菌や微生物と一体となって、人体だけではなく様々な物を複合した存在、「超個体」として生存してきた。今では、かつて人類と共にあった存在を排除し、汚れたものとして遠ざけつつある。もちろんそれは、正しかった。寄生虫はうんこに混ざって出てきたり、胃を荒らしたり、活力を奪ったりするし、ピロリ菌は胃がんのリスクを増大させる。人類に明確に害をもたらすものだ。
本書ではこいつらがいなくなったせいで我々の世界に突然アレルギーが蔓延し、さらには自閉症やクローン病のようなものまで影響が広がっているのではないかという説を広範に、丁寧に検証していく。害はあるが、しかし意外と目に見えない、知られていなかった利点もたくさんあったのではないか? そして──我々がアレルギー症状を起こし、現代社会が寄生虫や微生物、ウィルスから隔離された結果こんな状況に陥っているとすれば、寄生虫や菌を意図的に取り込めばそうした症状は抑えられるのではないか?
実際にこうした手段はひろくとられており、さらには画期的な効果をあげている例がいくつもある。そうした実例が、本書ではいくつも紹介される。意図的に体内に寄生虫を取り込むことによって自閉症の症状が緩和され、普通の人間と同様にふるまえるようになった人、花粉症が治った人、皮膚病が治った人、クローン病が寛解した人。本書の著者は重度の免疫疾患で、毛はすべて抜け落ち、花粉症持ちで、皮膚炎持ちであった。著者は寄生虫を自分の体に取り込んでそうした病気を治すという実験を自身の身体で試してみることにする。
もちろんもうとっくに成人した大人である著者に突然髪の毛がはえてくるわけではないが、鈎虫をとりこんだ著者の身体は軽い頭痛、胃腸の不快感などの抵抗は起こったものの、鼻はクリアになり、長年身体に存在していたおできが消え、指のアトピー性皮膚炎が消え、ほんのわずかな産毛が生えてきたという。もちろんこのような著者の実体験はメインではなく、世界各地からこうした寄生虫治療のサンプルを集め、その妥当性をできるだけ科学的に暴き出していこうというのが主軸ではあるが、一つの体験談として興味深い。
最初に「判断するのが難しい」といったのはこうした寄生虫治療がいまだ正規医療として取り入れられているわけではなく、いくつかの大規模な治験が行われて入るもののまだ効果の実証的な把握段階には至っていないことだ。なにしろ生物を相手にしてのことだし、そもそも害も存在するものなので、明確なリスクとリターンの測り方が難しい面がある。いくつもの「私はこれで自閉症が治った」「私はこれでアトピー性皮膚炎が治った」「花粉症が治った」「皮膚病が治った」という報告はあれど、あくまでもそれらはサンプル数1であり、平均的な数値として還元できるものではないし、何よりまだメカニズムが把握されていない。
しかし読んでいて一番驚いたのは自閉症が寄生虫によって症状が著しく緩和した例があるという話だ。十代の自閉症の息子を持つ親が、たまたまツツガムシに刺された息子が著しい症状の緩和をみせたことで驚き、自身で調査を行い、最終的にブタ鞭虫卵を購入し、息子に二週間おきに2500個のませたところ、施設に入らざるをえないほどのパニックを起こしたこともある息子が8週間後には穏やかになり、質問にちゃんと答え、微笑みを見せるようになった。
しかしなぜ自閉症がブタ鞭虫卵によって症状が緩和されるのか? 僕は別にこれ以外に特別詳しいわけではないから、この本に書いていることを信じているわけではない。自閉症が喘息と同じ疫学的パターンを示し、自閉症患者に典型的な炎症がみられることは確からしい。寄生虫に感染させると起こることというのは免疫制御回路を強化することにつながり、アレルギー疾患はこの免疫制御回路たる抗炎症信号伝達物質やレギュラトリーT細胞と呼ばれるものに異常がみられる共通項があるが、自閉症児やその母親にはこうした異常の箇所も共通しているのである。
自閉症児の割合は1970年には1万人に3人、2000年代はじめに150人に1人、2012年で88人に1人になった。文明病といってもいいぐらいの速度で増加していることになる。もちろんこうした症状は、診断する側の基準のブレによって大きく変わってくるものであり容易に「増加した」ということはできない。それは他の花粉症などの増加にも同じようなことが言える。化学物質が関係しているのかもしれない。
今は仕方がないもの、あって当然のもの、受け入れざるをえないものとして存在しているもろもろの症状。皮膚炎であるとか、花粉症、自閉症であるとかが、根本的に治療する方法が確立されるかもしれない。今はまだリスクが高く、コントロールが不可能で、多数のサンプルが上がっている仮説に過ぎないが、未来につながるパスの一つかもしれない。たとえばこれは一例でしかないが、タイでは先ほど自閉症治療に使われたブタ鞭虫卵製剤が治療薬として認可されている。自分で試したいと思うわけではないが、今後も注目していきたい流れだ。
- 作者: モイセズベラスケス=マノフ,福岡伸一,Moises Velasquez‐Manoff,赤根洋子
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2014/03/17
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (9件) を見る