基本読書

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コールド・スナップ by トム・ジョーンズ

舞城王太郎訳に惹かれて読もうと思った人間がいるだろうが、僕はそのうちの一人である。10篇の短篇集。舞城王太郎文体を求める人間にとっては期待通りの一冊となるだろうし、それ以上にトム・ジョーンズという作家の凄さに気がつくことになるだろう。これほどまでに鬼気迫る、生き延びるための物語は読んだことがない。

ものの見事に舞城文体に変換されており、文体だけみればまるで舞城王太郎が書いたような感覚を受けるが、まあ訳をしているんだからその辺の変換はぜんぶ訳者のさじ加減次第というものだろう。清涼院流水トリビュートである九十九十九がどこからどうみても舞城作品になってしまっていたように、またジョジョトリビュートであるJORGE JOESTARがどこからどう読んでも舞城作品だったように、本作も文体を完全に自分の方へ引きつけて書いている。

舞城文体は非常にあっていると思う。完全に舞城文体なんだけど、それは作品を歪めているわけでもなくむしろ物凄く正しく翻訳されているような、あるべきものがあるべき場所へと収まっていったような、出会うべき二人が出会ったような、そんなすっきりとした気持ちよさがある。原著の刊行は1995年なんだよね。Kindle版があったら訳との対比ぐらいやっておこうかと思って探してみたのだけど、さすがにそれぐらい前の物になるとある程度有名作家でもない限りKindle版は存在していない。

文体自体はある程度自由にできるとはいえ、単語のつながり、リズムの取り方、テンションを上げて行くテンポまで含めて似ているのはどうなんだろう。むしろ舞城王太郎はもともとトム・ジョーンズから影響を受けて自身のリズムを構築してきたのではないかと、刊行時期などをみてそんなことを考えてしまうような一致っぷりだ。帯文として岸本佐知子さんが「トムとマイジョーは、たぶん魂の双子です。」なんて書いていて、「いくらなんでもそれは言いすぎだろう」と思ったものだが、読み終えてみれば納得する他ない。

当然だが超訳(原文から離れて意訳を押し進めていくような訳)ではないので、その中身自体はトム・ジョーンズの作品になる。で、これがまた良いんだな。10編の短編をそれぞれあらすじを書いていくつもりはないし、そもそもあまりあらすじを書いていく必要のある作品ではない。どの作品の短編も、名前も立場も違うがそれぞれに共通することがあり(糖尿病、ベトナム、アフリカで滞在している、ボクシングをしている、などなど)何よりその立ち位置は一貫して孤独なものである。

この孤独性は中心人物を男性にしようが女性にしようが変わらない。そして、この孤独性は何も一人ぼっちというわけではない。どこにいっても人間ばかりがいる世界で、自分だけがどうしようもなくズレているような感覚。日常的に会話を交わす人間が周りに何人もいながら、セックスパートナーもいながら、それでいてどうしたって自分が「違うんだ」「この世界に適応できていないんだ」と感じてしまうような絶望感。

うまく説明できないんだけどこの孤独性の描写が、今まで読んだことがないぐらい自然であり、つるりと自分の中に取り込むことが出来た。なるほど、これじゃあ世界はさぞや居心地が悪かろうと、登場人物のアウトサイダー的な視点に自然と同化していくことができる。劇的に悲観しているわけでもなく、ただ自分の状態はそうなのだ、どうしたって今の絶望感は拭い去れないんだと受け入れている感じであったり、やることなすことどれも「平均的な社会」に溶けこむことの出来ない異常性を抱えている描写だったり。

完全な意思疎通や、完全に同一な人間などどこにもいない以上、みなどこかしらで自分と他人との差異や分かり合えなさを感じているものだと思う。本作に出てくるような徹底したアウトサイダー、麻薬をやるのは当然で、糖尿病だろうがなんだろうが酒を飲み煙草を吸うような人間達でなくとも、彼ら彼女らが感じている疎外感や孤独感、そしてそこからくる破滅願望や世界の受け入れ方には、必ず引っ掛るところがあるはずだ。

こうしたツラさみたいなものは、理屈じゃないのだろう。自分の世界認識それ自体が、周囲とズレているのだから、生きづらさは根源的なものなのだ。運動すればポジティブになるよとか、恋愛をすれば生きる気力が湧いてくるよとか、そんな次元にいないんだよね。『どうして私が?』『神はどうして私にこんなことをしたの?』と問いかけても答えなど返ってこないし、誰も答えを与えてくれない。

そして、だからこそ脳みそを直接どうにかしてしまうような麻薬やアルコールや性衝動に走る。ツラさが理屈ではないところにあるのと同じように、希望や諦観みたいなものもまた理屈とは違ったところからやってくるようだ。それはまるで天啓のように、意味不明な行動から起こりうる。たとえば配電室にいる蜘蛛をみてこいつは何を食ってるんだと気にし、その後、夜ベッドで蜘蛛が飢えてるんじゃないかと心配になって義足をつけてえっちらおっちら外に確認しにいって、冷蔵庫からハンバーグの塊をちぎってあげにいったりする。

あげくの果てに蜘蛛がタバコの煙を吸っているとなぜか解釈して、自分の失った足を忘れるようにして煙をくゆらせ吹き付け、会話を楽しむようにして蜘蛛を眺める。会話の成立するはずのない相手と会話を愉しみ、そこに何か大きな意味を見出している。まるで常軌を逸した行動だ。でも理屈で考えていたら到底しそうにない、ラリって何もかもが意味のあることのように思えたり、あるいは異常に細かいところに意味を見つけ出してそこに人生訓やメッセージをとってくる無軌道なエピソードの数々は、理屈じゃないからこそむしろもっともらしい。

「ちょっとヘロイン打ったんだ。モーツァルト……」と彼は言う。「脳の高機能部位を麻痺させちまえば、死ってのはそんな大したことじゃねえよ。いや違うな!言い換えさせてくれ。脳の原始的な部分と、それよりさらに高度な、一番明晰な機能を果たす脳部位を麻痺させてしまえば、そしたらやっと、頭蓋骨の底に置かれてる生きる意思ってもんを克服できるわけよ。物事の本質そのものをそのまま見るってことなんだ。ちょっと違うな!実際には、物事を、オマエの実在のもっとも核となる部分で感じ取るということか。悪いけど、俺の頭の回転もいささか怪しくなってきたな。何もかも凄えシンプルなんだよ。麻酔をかけちまえば生きるか死ぬかの決断なんてチョコレート・アイスクリームにするかバターピーカンにするかってのとそれほど変わらなくなるぜ。」

なんかこの、一発でうまく言い切ることが出来ずに、何度か言い直して確信に迫っていくノリとリズムが舞城王太郎っぽいと思うのは僕だけだろうか。脳の理屈的な機能をストップさせ、言葉にできない理屈抜きの領域に肉薄し、そうしてはじめて生きている実感だとか、死へと向かう一押しだとかを持ち帰ることになる。平和な短篇集ではない。イッちまった人間の協奏曲といったかんじで、助かったり助からなかったりするが、みなそれぞれの意思で走り抜けていくので悲壮感はない。話が進んでいくに連れテンションはガンガン上がり、生とか死のような根源的なものに近づき、感覚的な文章の迫力は増していく。

「いかにして生きるべきか」なんてぬるい次元で生きている人間ではなく、「いかにしてやりすごす、あるいはケリをつけるのか」といった徹底的な後退戦としての人生を実感させてくれる短篇集だ。舞城王太郎訳がどうとかは、最後まで読むと吹き飛んで、トム・ジョーンズのファンになっていることだろう。

コールド・スナップ

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