特に異常な事件に巻き込まれるわけでも、恋愛をメインにするわけでも、魔法が出てきたりドラゴンが出てきたりするわけでもなく、ある特定の業種で働く人たちを書く──基本的にはお仕事小説。ananに連載していたというから驚きだが、ばりばり働く女性のイメージが今やアニメ業界に集まっているのかもしれないな。監督やアニメーター、演出家にと女性比率が傍から見ていても高いし。
書名は恐らく派遣アニメや覇権アニメなど複数の意図をもたせて、呼びかけた時の音声のイメージでつけられているのだろう。アニメーション分野で働くプロデューサー、監督、アニメーター(3人共女性)とそれぞれ1章につき1人書いていき、最後に締めの終章が入る連作短編集のような一作である。中心プロットは「それぞれの立場からそれぞれに意気込みをかけているアニメの中から、どれが覇権アニメになるか」である。覇権アニメとは⇒覇権アニメとは (ハケンアニメとは)- ニコニコ大百科 約3ヶ月、1クールのアニメ作品にたいしてBDやDVDなどの売上ナンバーワン作品にたいしてもっぱらファンの呼び名として与えられるものであると書いてあるな。売上を基準にしているのはよく知らなかった。なんとなく、その場のアニメーション視聴者のノリで決まっているのかと思っていた。
どちらにせよ覇権アニメなんていうのは馬鹿げた概念だ。アニメーションの出来、評価は売上だけで決まるわけではない。さまざまな評価軸があり、ある評価軸ではトップという評価であっても、ある評価軸ではずたぼろということはありえる。しかし本作はそんなことは百も承知で「覇権アニメを目指そう」とそれぞれの登場人物が自身の向き合っている作品に注力していく(全員ではないが)。と同時にアニメの現場を書いていく側面もある。まさにお仕事小説ですな。アニメのプロデューサーって何してる人なんだ? 監督ってどんな仕事をするんだろう? アニメーターってどの程度金があって、どんなふうに仕事しているのか? 本書ではアニメーターの章だけ「聖地巡礼をプロデュースする地元の公務員」とセットに聖地巡礼をセットアップする様子と共に書かれてしまうが、これなんかもろくにアニメを見ないし聖地巡礼もしない身からすれば興味深い。
ただ、アニメと一言にいっても、この三人の役職だけで成り立っているわけでもない。声優もいればパソコンでごにゃごにゃやる人もいる。副監督もいれば撮影する人もいるし、音響監督もいればモデリングする人もいる。問題が起こった時に頭を下げる人も入れば金を出す人もいるわけで、取り上げだせばキリがない。監督一人取り上げたって、作業の進め方も一人一人千差万別だろう。それでもそれぞれの見えている範囲でウマいことバランスをとって、業界として厳しい面も取り上げれば、なぜキツイとされているアニメ業界に入ったのか、そこには大変さを支えるプラスがあるのかということを「どうして、アニメ業界に入ったんですか」という問いかけに答えるような形で進行させていく。ツラさの表現、どんな仕事なのかという表現だけでなく、しっかりエンターテイメントとして成立させている。
辻村深月さんといえば『冷たい校舎の時は止まる』でデビューした後青春小説のくくりで活動している作家だという認識が多いのではないかと想像する。が、スロウハイツの神様(講談社文庫) by 辻村深月 - 基本読書 などでプロと非プロクリエイターが混在して集まる共同生活物というなかなか胃が痛くなりそうな物を痛さそのままに爽快に書ききってみせたことなどもあり、今回アニメを題材にしてさまざまな側面からアニメクリエイターを描いていくことに特に違和感はなかったな。延長線上に存在する感じ。実際スロウハイツの神様と共通している人物もいるし。
とはいってもアニメ業界については辻村深月さんはドシロートであるわけで、その辺の欠落はどのように埋めたんだろうと考えていたら、巻末の謝辞に幾原邦彦氏さんや松本理恵さんの名前と同時に幾人ものプロデューサーの名前がある。僕自身はアニメをよく見るわけでもないし、アニメ業界に詳しいわけでもないから、本書に書かれていることがどこまで正しいのかわからないが、ドシロートの観点からみて物語の面白みを損ねるような納得感の欠如は見られなかった。作中人物の一人にも幾原邦彦さんや松本理恵さんの個性が反映されている(ように見える)など、おそらくは人物造詣にもこれらの取材対象者は影響を与えているだろう。
単純な無能の排除
個人的に良かったのは、単純な無能、物語の進行を妨げるためのアホがほとんど出てこないことだったな。すげえアホがいる、あるいはわかりやすい嫌なやつがいて、作中進行させるべき作業がストップ、妨害されてしまう。よしじゃあその嫌なやつに一泡吹かせてやろう、あるいは何らかのやり方で排除しよう、勧善懲悪・悪即斬。そうした話はわかりやすいし、往々にして現場には物事を滞らせるだけの無能がいるものだ。だが単純に物語として見た時に、僕はあんまり好きじゃないなあ、そういうただの無能を排除するようなプロットは。単純に嫌なやつって、そうそういないものだし。
本作は先に書いたように覇権アニメを狙うべく最強のアニメ監督に依頼を投げたプロデューサー、それに対抗して覇権アニメを狙うまた別のアニメーション監督、そのどちらの監督の作品にも参加しているアニメーターの三人の視点でそれぞれ展開していく。立場も会社も違う3人だが、同じ業界で、少なからず関わりがあるのでちょくちょく物語が交叉する。そして当然かもしれないがA視点からみたプロデューサーの評価と、B視点からみたプロデューサーの評価というのはやはり違うわけだ。ある視点では嫌なやつ、あまり能力のないやつのように描かれていても、別の視点ではちゃんと自分なりの挟持を持って仕事をしているところが描かれている。こうした人間の性格や行動における多面性を各々の視点を交叉させていくことで表現していくのが良い。
みなそれぞれのプライド(ここではたとえ自分の担当外であってもクォリティ維持を目指すような心意気をさす)をもって仕事をしているというのは、メインで書かれている三人だけではなく、傍役といえる人間たちまでみなしっかりと自分の仕事をきちんとこなしていく。ひょっとしたらそれはファンタジーなのかもしれないが読んでいてとても安心する光景だった。
クリエイターなら突飛な行動も許されるか?
アニメーション監督として、日本で一番有名だろう富野由悠季、押井守、宮﨑駿はそれぞれ監督としてのちょっとドン引きしてしまうようなエピソードが数多くあるし、古く遡れば作家、漫画家、巨匠と呼ばれるような人たちには無茶苦茶なエピソードがつきものだ。だからか知らないが、クリエイターは才能があればあるほど常識がなくても許される、あるいは人とは違うクリエイターという人種だからこそ、良い作品が作れるのだみたいな風潮がある。
単なる一人の受け手としてはそうしたエピソードをやんややんやいって受け止めていればいいかもしれない。しかし趣味ではなく仕事として請け負う以上、自分だけに迷惑がかかるのならまだしも他人に迷惑をかけている時点でそんなの美談でもなんでもねえというのは関係各位の正直なところだろう。また作品のクォリティ的にも、何事にも余裕を持って、変えるべきところは変え、本質に関わる部分への変更要請はなんとか交渉し、調整をしながら作業を進めることが結局良い物になるのは言うまでもないと思う。たとえば作家の逸話なんかでよくあるが、酒浸りだったり、締め切りなんて過ぎてから書き始めればいいんだみたいなのは、仕事をする態度としては最悪だし、時間に追われたほうがいい仕事ができるなんてのはただの都合の良い妄想である。
ぜんぜん本と関係ねえ話を続けやがると思っているかもしれないが、本作にはまさにそうした「突飛な行動をする天才肌な監督」が出てくるのだ(幾原監督と松本監督を足したような)。最初は誰もが思い描くようなタイプで嫌だなあ、あとこんなもんがまだ出てくるってことはまた天才クリエイター=おかしくあるべき みたいな風潮は根強いんだなあと思っていた。だがこうした人物も視点が積み重ねられていくことによって、それなりの説得力が与えられていくのが面白かったな。ようは世間がそうした天才剤を求めているからこその自己演出的な部分が存在してしまうのだ、というあたりで、それはまあそういうものなのかもしれない。
どこを書いて、どこを書かないのか
お仕事物フィクションの共通の悩みどころというべきかもしれないが、「何を書いて何を書かないのか」が重要なポイントになる。たとえば本作では声優はメインでは描かれていないが、傍目からみていて、自分の親しい人間が「声優を本業として目指します」といったらまあ普通は止めるだろうと思う。止めないにしても、最低限セーフティネットは張っておくべきだと薦めるだろう。教員免許でもなんでも、手に職でもいいし、何歳までのチャレンジするという制約でもいい。こうした現実的なリスクを見据えずに「女の子が声優を目指して、事務所に所属して練習も重ねてついに無事声優として役を得る、人気者になってファンからちやほやされるようになりました!!」と表現されたら、えーそれはちょっと、いくらフィクションといっても無責任なんじゃないのと思うだろう。
かといって声優を目指した女の子がいましたが顔もあんまよくないしスタイルも別に……声はいいけど今は顔もよくないと売れないからまるで取り上げられないまま33とかになって焦ってその辺の男つかまえて結婚して夢を諦めましたなんて(このストーリーはありそうだと思った僕のただの想像だけど)話にしてエンタメになるかといえば微妙だろう。絵を書く、作品をつくる、声をあてる。結構なことだ。視聴者はそれをみて生きる活力を得る、憧れの、素敵な仕事ですよ。しかしだからこそ目指す人は多く、実力を示し続けなければいけないともいえる。目指す人が多くても需要と供給ってもんがあるから、賃金も技術がなければそうは上がらない。光があたる場所には、また同時に影もあるものだ。
本作はもともとその業界に適正や能力があり、幸いにしてすでに自分なりの地位を築きあげている人達をメインに描いているので、そうした「下積みの絶望」的な部分にはそこまで触れられていない。だがそれぞれの立場で作品をつくることのプレッシャであるとか、一つのアニメーション作品を1クールつくり上げることへの容易にはいかなさはちゃんと捉えられているのではないだろうか。そしてもちろん、ある作品を作り通した時のほっとするような感覚と、作品へのこだわりをやり通した時のやってやったぞという自分への祝祭も。こうしたプロフェッショナルな人間が、力を出し切って最善の結果を出すことが書けるのは既に実力をつけた人間たちを主軸に据えたからこそだなと思う。
今は『SHIROBAKO』という、先の分類でいえば「まだ業界の入り口に顔を出したばかりのひよっこども」の悲哀と希望を書いている同じくアニメ業界ものが(こっちも理由は違うが女子ばかりだ)やっているから、興味があるとみてみるといいかもしれない。立ち位置が違うから、立ち現れる絶望もまた異なってくるはずだ(アニメーション作品の対象視聴者数でどの程度までやれるものなのかは見ものだが。今のところシビアな表現はほんの数秒、もしくは数十秒のさりげないシーンで挿入して底上げしていて技術力の高さに驚くがし、五話まで見た限りでは志の高いアニメだと感じる)。
なんとなくの結論
莫大な金を必要とする商業アニメーション制作にとって、まずもって必要とされるのはペイすることであって、作品に過剰な「視聴者への教訓だとか、救い」を入れることが正しいのかどうか、また視聴者側としてもそこにかけた金を回収するための商業事情以上の何かを読み取ろうとすることが正しいのかどうか、いまいち判別しがたい時もある。ただ少なくとも本作は、そうした単なる商業作品の枠を超えて、作品に膨らみをもたせようとする創作者たちの物語である。アニメはどれだけ優れた表現だったとしても、いってみれば究極的にはただの現実逃避、なくても生きていけるものにすぎない。しかし現実逃避といえども、逃げ込んだ先で何か得るものがあったとするならば、それは逃避ではなく探検になるだろう。単なる娯楽作品、現実逃避を促すような物語であったとしても、何を得るかは人それぞれだ。
- 作者: 辻村深月,CLAMP
- 出版社/メーカー: マガジンハウス
- 発売日: 2014/08/22
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