基本読書

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遁走状態 (新潮クレスト・ブックス) by ブライアンエヴンソン

記憶というのは主観的なものだからか、自分にとって重要でいつまでも記憶の隅にこびりついて離れないものが、他人にとってはどうでもいいことだったりすることがよくある。

たとえば自分を例にとれば、小学生の時のことだ。スイミングスクールに一人で、バスに乗って通っていた。携帯も何もない。ぼけーっと何を思うともなく、座りながら外を見ていたら、両手を離しながら音楽を聞いて自転車を漕いでいる男の人が見えた。僕自身はようやく自転車に乗れるようになったか、はたまたまだ乗れないぐらいだったのだろう。両手を話して自転車をこげるのが凄いと思ったし、優雅に見えたし、「大人だなあ。自分もいつかあんなふうにだるそうに両手を離して、音楽を聞きながら自転車をこげるのだろうか。いや、はやくあんなふうになろう」と思ったものだ。

だからいまだにとって僕の中での「大人」はあの人なのである。ちゃんと自転車に乗り、両手離しで自転車をこげるようになり、でもこれはけっこうあぶねえなと思った時も思い返したし、今もふとした瞬間のあの時のイメージが湧いて出てくる。だが、たぶんあのバスに乗っていた人は誰もそんなことを覚えていないし、その男の人も当然僕のことなど知らない。たまたま、一瞬すれ違っただけのなんてことのない風景、それが出会ったタイミングと出会った人にとっては、計り知れない重さとなってその人の人生に刻みつけられる。

こいつはいったい何の話をしはじめたのだ、ブライアンエブンソンの遁走状態についての記事ではないのかと思うかもしれないが、この『遁走状態』が持っている魅力は僕にとっての「両手離し立ち漕ぎ男」に象徴される、「主観によって全く異なる主観の重要度の変容」を見事に表現しているところにあるのだ。本書『遁走状態』は19編の短篇集である。いきなり世界終末の話だったり、あるいは事故で目が見えなくなった男の話だったり、不死身の男が出てきたりとばらばらだが、その根底に描写されていくのは自分という唯一絶対無二の主観が持つ「自分だけの恐怖」だ。

たとえば一番最初の短編『年下』は妹の視点から語られる「個人的なトラウマ」の話だ。彼女は幼少時、トラウマとなるイベントをなんでもそつなくこなす姉と一緒に経験した。しかし姉は、それを単なる何でもない出来事としか捉えていない。そういえばそんなこともあったね、なんでそれがそんなに気になるの? てなもんだ。でも妹からすればそれは人生を一変させかねない重要な出来事だったし、決定的に人生のレールを変えてしまったのだ。それをいくら姉に説明しようともその正確な理解は、姉には訪れないのである。

「でもほんの数分だったのよ」と姉は主張した。
「まるで数時間」と妹は言った。「ほんとに数時間経ったんじゃなくてまるで数時間経ったような気がしたのよ」。たしかに、ほんとの数時間じゃなかったことは認める。でも、つきつめて考えれば、ほんとの数時間なんてどこにもありはしない。けれど、もうすでに姉の気持ちは離れてしまった。今回もまた、あっという間に、いったい何があったのかを理解する助けを姉に求めるのはもはや不可能な地点に達していた。けれどもそれでも彼女は喋りつづけた。いったん喋り出したら、喋りつづけるしかないじゃない?

熱いストーブの上に手を置いた3分と好きな相手とおしゃべりしている時の3分がまるで異なる時間であるのと同じように、「ほんとの数時間なんてどこにもありはしない」のだ。人によって異なる時間が流れているだけで、我々は決して同じ時間を過ごしているわけではない。僕があの時あの一瞬、両手を離して音楽を聞きながらだらだらと自転車を漕いでいる男に受けた衝撃と羨望を諸君らにいくら話そうが伝わらないのと同じように、主観的な記憶と客観的な記憶は異なり、絶対的に伝わらない。その伝わらなさは、時として我々をひどく孤独な場所に追い込んでいく。

客観的にはなんでもないイベントを、とてつもなく重要だったのだと他人に納得させるように書くこと。それは実はそんなに簡単なことではない。僕が語った自転車のイベントも、諸君らは「そうか、そんなに印象に残っているんだな」ということは理解されても、本当の意味では理解されないだろう。しかし優れた文章家にはそれができるようだ、と本書を読んでわかった。優れた小説の文章に出会った時、僕はいつも触れられたことのない部分に触れられたような感覚を覚える。定義されてこなかった部分に明確な言葉が与えられたとでもいおうか。言葉は記号であり、それであるがゆえに記号自体それ自体に価値があるのではなく、記号が触媒となって我々の脳内に反応を起こしそれが我々にとって快感、喜び、悲しみといった感覚をもたらす。記号はトリガーなのだ。だからこそ言葉は脳内で起こりえるあらゆる反応を起こせる可能性があるといえるだろう。

ブライアンエヴンソンがその文章で我々の脳内に対して鮮明に訴えかけてくるのは我々が持っている自分だけの絶望がいかに他人の客観的な現実と大きく隔たっているのか、その根本的な隔絶だ。それは時に単なる恐怖として、時には終わりなき徒労として、さまざまに表現形式とシチュエーションを変えて描かれていくが、気持ちのよい希望を残して終えることもある。

いちばん印象に残ったのは『助けになる』というわずか7ページの掌編かな。「主観と客観のズレ、その隔絶感」を書くのであればその最適なフォーマットはもちろん一人称視点だと思う。しかしこの掌編は三人称で、隔絶を抱えた男の内面をほとんど描写することなく、やりとりのみでその絶望の深さと、それを理解できないが何かしてあげなければと感じる妻の焦燥感とその行き着く先を描いている。あまりにも鮮やかで読み終えた後しばらく呆然としてしまった。

当然『助けになる』以外も19編それぞれ違った形で凄味のある一冊だ。なんてことのないイベント、なんてことのない日常がそれに不釣り合いな質量を持って描かれていく、文体の力、物語の力を感じる、ずっしりと重い短篇集。

遁走状態 (新潮クレスト・ブックス)

遁走状態 (新潮クレスト・ブックス)