基本読書

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別荘 (ロス・クラシコス) by ホセ・ドノソ

時間は伸び縮みし、現実の有り様は歪む。秩序が崩壊し、既存の生活様式を破壊し、奔放な想像力を自由にさせるがままに任せたような象徴的な空間とエピソードが連続して物語を紡いでゆくこの本をいったいどのようにして紹介したものなのかさあ書きだそうとして少し戸惑ってしまったが、他にいい書き出しも思い浮かばないのでこの戸惑いをそのまま書いていくことにする。一言で感想を書くなら「イカれてる」だけど、会話にはパワーがあり文体は洗練され、繰り返される象徴はどれも多重的で意味をつないでいき印象深く機能している、総合的に素晴らしい一冊だ。

別荘はホセ・ドノソによって書かれた小説である。これがどのような小説なのかは、どうにも説明しがたいところがあるのだが、まあとりあえずざっくりとした概観から始めると、一年のうち三ヶ月ほどを別荘で暮らす一族の物語だ。この一族は合計すると五十人近く、さらに使用人や執事を山のように連れて行くのでまあとても数が多い。基本はこの別荘の中で一族は働きもせずにだらだらと過ごしているわけだが、ある日親たちはみな揃ってハイキングに出かけるという。当然子どもたちはみな取り残される。しかしそこで子どもたちは日頃の鬱屈、憎しみ、抑圧が反発してはじけたかのように自分たちの抑圧されていた本性を露わにするのである。

それだけ読むとなんだ、普通の小説じゃあないかと思うかもしれない。子供だけを残して、親達だけで一日家をあけるなんて、それこそ物凄く幼い子どもたちだけで残すわけでもない以上普通のことだ。しかも取り残される子どもたちの中には17歳の男の子や15歳を超えている子が何人もいる。それで心配する方がおかしいだろう。なので「何をこいつらはそんな普通のことで大騒ぎしているのだ」と思うのだが、読み進めていくとこれがなんにも普通でないことにすぐに気がつく。だいたい、これが小説なことからして異常だ。話が始まる前に一族の親とその子どもたちの名前がズラっと五十人近く一覧になって載せられているのだから、「え、こんなたくさんの人間、覚えられないんだけど。ていうかこいつらみんな出てくるわけ?」と慌てる。

本書は第一部と第二部で分かれているが、第一部は親たちがいかにして家を空けハイキングに出かけるのか、そして実際に出かけていったあとで子どもたちがどのような混沌を巻き起こすのかの綿密な描写になっている。もちろんいきなり五十人全員を描写して把握できるわけではないから、そこは親切にわかりやすく、少数の子どもたちの関係性を中心に話を展開し把握しやすく進めていってくれる。

子どもというのは、それがどれだけ優れた両親であっても基本的には親に抑圧され、社会に締め付けられているものだ。多くのことが許されておらず、また身体の制約や能力的な制約から行動の幅も狭められている。有形にしろ無形にしろそうした抑圧から開放された時に子どもはいったい何をしでかすのか……と想像するとなかなか恐ろしい物がある。それだけに十五少年漂流記や、蝿の王的な「子どもたちだけで取り残された社会・組織とは」という思考実験的な物語も生まれてくるのだろう。

故に、本作はそうした状況が、親が別荘からいなくなるということによって擬似的に生成された「子どもたちの王国」で何が起こるのかの小説なのだろうと最初は思っていたのだが──何度も書いてきたように、実態はそれとは大きく異る。まずあまりにも人数が多く、親たちはみな狂っており、必然的に子どもたちもみなどこかしら精神的なアンバランスさ、極端な憎しみや恨みを抱えていて、まっとうな話になるはずがない。まず主要人物たる子どものウェンセスラオからして、親から女装を強要され常に女装した状態で日々を過ごしている為に、アイデンティティの混乱に陥っている。

親族間の関係性、また生きているだけでも33人のいとこたちがいる子ども達の関係性を延々と第一部では続けていくわけだが、みなそれぞれ強烈な抑圧的状況と異常性、親への殺意にも至る憎しみを抱えている。何よりベントゥーラ一族の特徴とは、権力をもってして現実に当たっていくことが常態化しているために一人では何もできないところにあるのだ。金があり、使用人がいるのだからそうなるのも必然というべきか。現実に相対しなくていいという意味では彼らはそもそもの最初から現実に生きてなどいない。幻想を抱き、幻想の中で生きていてもそれを破る現実はめったに彼らの前を横切らないからだ。

そしてそんな現実感のあやふやな子どもたちだからこそ、いとこたちの関係性や、起こる事象もまたどんどん現実感を失っていく。強い決意をもって親がいなくなった瞬間に金(かねではなくきん)を持って逃走しようとする娘、別荘の周囲に存在し、かつて人肉を食らっていたという原住民への防壁として張り巡らされている1万本を超える槍を片っ端から抜いて回る子ども達、かつて原住民と接触し突然姉を殺し人肉スープにした妹……。どいつもこいつも狂っていて、こうした従兄弟間の関係性や、両親との確執、憎しみ、計画をさまざまな象徴的なモチーフを連続させながら洗練された文体で語りかけてくる。

なんとも語りづらいと最初に書いたが、それはこの物語が単純な直線としては進んでいってくれないこともあるだろう。親たちと子どもたちの時間は著しく隔たっており、また子どもたちの間でも現実の認識はばらばらだ。しかし、とあえていおう。だからこそ、起こることは現実離れして時に幻想的ですらあり、それらは象徴的な意味合いを帯びてゆき子どもたちの会話、執事と子どもの争い、親と子どもの間にある憎しみ合いとその結果にあるお互いを破滅させあうような行動の数々が総体として印象的に機能していく。

一本のお話が進行していく物語として見ると駄作になってしまうだろうが、これがベントゥーラ一族という一枚の絵なのだと思って読むと個々の場面が印象的に浮かび上がってくる。

象徴について

まあ、だからこそ本作は読んでいるとむちゃくちゃなことが次々と起こるのだが、それはもう字義通りに受け取っていったほうがいいのだろうと思う。たとえば顕著なのは、本作においては時間の流れは伸びたり縮んだりしている。両親がたったの一日のハイキングに出かけている間、子どもたちは一年もの時間を過ごしていると主張する。双方の認識はまったく噛みあわない。別荘があるという環境からしてどこまでが本当で、どこからが嘘なのかさっぱりわからないことだらけだ。人喰いの原住民がいる? 本当に? それが襲いかかってくる? 本当に? その為に家の周りに1万本を超える槍がある? 本当に?

槍を次々と引っこ抜いていく場面も、人肉を食べるか食べないかで葛藤する子どもたちも、どれも印象的だ。それが「実際に起こったのかどうか」というのは、読んでいてもあまり気にはならなかった。というよりこれを読んでいて思い出すのは「自分の子ども時代」なんだよね。本当に幼かった時、親がいない一人だけの時間はいつもの時間より長く感じたものだったし、家の中で椅子を並べてそれが電車だと想像して車掌ごっこをして遊んでいた。家の周りには地雷原が敷き詰められて誰も近寄れないという設定だったし、悪いことをしたらお化けのいる押入れに入れるぞを両親に脅され、真に受けて怖がっていた。

子どもの想像力の前には時間とは簡単に伸び縮みするものであり、現実に起こる事象とは容易く拡張されうる柔らかく広いものだった。この『別荘』という小説においては印象的な場面で人喰いのエピソードが使われ、綿毛と呼ばれる人を窒息させ容易く殺してしまう季節的な事象が発生したりと現実的に考えればありえない話がいくらでも出てくるが、それらは象徴的な意味で我々に左右してもくるし、同時にこれらは全部我々が子どもだった時の世界そのものだとも感じる。

そして本作の特徴として上げないでスルーするわけにはいかないのが、こうした「あやふやな物語」をあくまでも小説として成立させている「語り」の明確な存在感である。

語りについて

本作では何度も何度も書き手が顔を見せる。「この小説が〜」と突然実況解説を始めたかと思えば、なんでこんなふうに語り手が物語に介入してくるのか、それは文学作品として悪趣味なのではないかとお考えの方も多いだろう、釈明させてもらうと〜と弁解を初めたりする。物語は何十人ものキャラクタに、時系列はぐちゃぐちゃで我々の知る現実とは大きくことなる事象が展開していくが、この語り手が時にはこの小説の意図を説明し、時にはこんがらがった状況を整理し、登場人物の思考や歴史をさいど教えてくれるから助かっている面もある。

この本の基調、この物語に独特の動力を与えているのは、内面の心理を備えた登場人物ではなく、私の意図を達成するための道具にしかなりえない登場人物なのだ。私は読者に、登場人物を現実に存在するものとして受け入れてもらおうとは思っていない。それどころか私は、言葉の作り出す世界のみに存在可能な象徴的存在──生身の人間としてではなく、あくまでも登場人物──として受け入れてもらったうえで、その必要最小限だけを提示し、最も濃密な部分は影に隠してしまおうと思っている。

この語り手自身は、こうした語りの目的について『こうして時折私が口を挟むことで、読者とこの小説の間に距離を保ち、そこに開示される内容が単なる作り事にすぎないことを明記しておけば、読者が実体験とこの小説を混同することもなくなるだろう。』などとめちゃくちゃな理屈を並べ立てているが、たしかに、このようにしてセルフツッコミ、セルフ批評、また時には良き案内係となってこの物語を先導してくれるからこそこの複雑怪奇な物語がぎゅっと引き締められて成立しているのだともいえる。

またこれが面白いのは常に「読者に向かって語りかけてきている」ことにあるのだろうと思う。案内係といったのはだからまあ、ぴったりな言葉だろう。別荘という物語を読んでいる我々読者とまるで並走するかのようにして語り手がその姿を見せるわけだから、別荘という物語を読んでいる我々それ自体が、この別荘という物語に取り込まれているともいえる。

本書が書かれたのは1978年だが、この特殊性と象徴を重ね事態を複雑怪奇に展開させながらそれを引き締める自己主張の強い語り手で推進していくというこのスタイルは今でも古びずにその面白さを保っている。

別荘 (ロス・クラシコス)

別荘 (ロス・クラシコス)