もはや失われてしまった「外国人から見た時の古き日本」を描写していく。具体的な年代については幕末から明治にかけて。海外からやってきた旅行者、使者、立場も違えば目的も違い、触れ合った人も違うという人たちの膨大な日本体験記から、かつて存在していた日本という抽象的な塊を描写してみせる。錯覚や偏見が入り混じり、たやすく歪んでしまいそうな、危うい視点で成り立っているにも関わらず、著者の筆致は誠実で危ういバランスを成り立たせているように感じた。
当時の日本を語ったものは、「日本の特異性に驚き、絶賛する」ような物が多い。たとえば近代登山の開拓者といわれるウェストンにより書かれた『知られざる日本を旅して』では次のように日本が描写されている。『明日の日本が外面的な物質的進歩と革新の分野において、今日の日本よりはるかに富んだ、おそらくある点ではよりよい国になるのは確かなことだろう。しかし、昨日の日本がそうであったように、昔のように素朴で絵のように美しい国になることはけっしてあるまい』
また通訳者として日本へやってきたヒュースケンは当時の日記に次のように記した。『いまや私がいとしさを覚えはじめている国よ。この進歩はほんとうにお前のための文明なのか。この国の人々の質樸な習俗とともに、その飾りけのなさを私は賛美する。この国土のゆたかさを見、いたるところに満ちている子供たちの愉しい笑声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私は、おお、神よ、この幸福な情景が今や終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳をもちこもうとしているように思われてならない。』
本書は「失われてしまった文明」についてのお話である。引用した部分のように、他国から日本にきた多くの人が日本の豊かさ、下層民にいたるまで礼儀正しく道徳的に優れていることをたたえ、貧しいにも関わらず飢えているわけではなく悲観するわけでもなく、笑顔が常に絶えずに陽気そのものの幸せな国民像を描写している。こうした日本での体験記、あるいは観察記の中にはもちろん否定的な物もある。美しくなく、不潔だという人もいる。礼儀の正しさはあまりに行き過ぎて滑稽だということも書かれている。しかし賛嘆や畏敬の念がそれ以上にこめられているのもまた確かなことで。
もちろん実際、当時の日本がただただ「楽園のような国」であったはずがない。それは当時の日本人の書いたものなどを読めば容易にわかる。なので観察の結果の多くは、観察者の視点によって大きく左右されていると考えていいだろう。長く滞在した人間もいれば、日本に好意的で良い面ばかりしか見ていない人間もいる。あるいは日本側から意識的に歓待をされていた場合もあっただろう。そこには各国を回った経験豊富な人が長期滞在を行って尚日本を賛美する人がいたり、あるいは短期滞在であっても客観性でもって冷静な文章を書いた人もいるが、みなそれぞれ自分の目の前にあったものを「日本である」と認識し自国へ戻ってそのことを書く他ない。
どれだけ注意深く排除したつもりでも、偏見、錯覚といったものは存在してしまうものだ。だからといって他所からやってきた彼ら彼女らが抱いた日本像が間違っているのかといえば、そうではない。なにもないところから錯覚はうまれない。錯覚が起こったとしても、そこには錯覚を起こすだけの「何か」があったはずだ。つまるところどれほど賛辞が的はずれだったり、幻影のようなものだったとしても、たしかに「異質なもの」をみいだしたのである。
本書はその錯覚を引き起こした「異質なもの」とはなんだったのかを探っていくことになる。注意しておきたい事がひとつ。本書は「昔の日本は良かった」という過去への愛惜と回帰を願う本ではなく「かつてこのように日本をみた人たちがいた」「かつてこのような日本があった」という「新たな視点と体験」の提供を行っている本だということだ。
外部からの視点によって、文明の諸相をまた別の側面から体験することができる。慣れてしまうと疑問を持たない多くのことに、異文化からやってきた人間は驚く。それは自国で培ってきた文化と日本にあったものがまるで成立過程が違うから当然だが(しかも長年、完全にではないとはいえ積極的な接触を断ってきたのだから)、その驚きの一つ一つが刺激的で、これまで見過ごしていた「凄さ」だったり「変さ」だったりといったものの発見につながっている。
ここで描かれるような江戸末期から明治にかけての日本は当然ながら今の日本ともまったく違う。女子供は裸を見られることにまったく頓着していなかったし、混浴が当たり前だった。明らかな精神異常者でも病院に入れられることなく町中で自由な振る舞いをゆるされ誰も排除されず、平気で店の中に上がり込んでいても気にもとめられなかった。庭園に驚き、煙草入れに驚き、本当に細々とした日常の所作に驚く当時の西欧人の視点は読んでいる側からすれば「そんな視点があったのか」と驚くことばかりだ。
この本の楽しみの大部分は概括的な日本人論、日本論にあるというよりかは、細々とした日常の違和感、日常の風景への憧憬の中にこそある。僕も当時の日本人が書いたものは結構読んでいるが、彼ら彼女らにとってそうした状況は「あたりまえ」のものであって、あまりとっかかりもなく読めてしまう。ところがこうして外からの視点を大量に並べられてみると「たしかに当時の異様な国をこの人たちは体験したのだなあ」としみじみと実感されてくるのだ。
ある文明の、とくに日常的な部分に対する特質はそれとまったく関わりのないところからきた人間による「異文化」として体験する目線の中にしか見えてこないものなのかもしれない。本書の中で驚かれる数々の文明の中から僕もまた多くの気づきを得た。ようはこれって今はもうほとんど見ることのない「近代化以前の日常」かつ「現在のルーツ」なのでいくらでも取り込める要素がある名著なのだ。
これを「単なる昔の日本マンセー本」にさせなかったのは、著者の誠実な態度ゆえだろう。幸せで下層民に至るまで豊かで美しい日本を賛美する意見を引用した際には必ずと言っていいほど「反対意見もある」ことを説明し、常にその錯覚の可能性を示唆しようとする継続的な努力が本書をさらに誠実なもの、価値あるものにしている。
- 作者: 渡辺京二
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 2005/09
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