万城目学さんによる時代小説。どうもそういうイメージがなかったのでこれを本屋で見かけた時にはわりと驚いた。きっちりとした時代小説であることもそうだし、その長さにも。Kindle版で読んだのでページ数はわからなかったが、今調べると750ページ近くある。今まであまり長いものを書いてきたことがない作家が、突然出してくる大長編というのは大当たりか大外れかが多いという個人的な印象があるのだが、本作については幸いな事に前者だった。つまりは面白い。
時代は1600年頃、ちょうど江戸幕府がおこったころである。戦がなくなり、さあこれからは徳川の時代で長い長い平和(小競り合いはもちろんあれど)が続くぞといったときに戦乱の遺物である、忍者たちがいかにして生きるのかというのが本書の主軸である。『とっぴんぱらりの風太郎』とはあるものの、実際の読みはぷーたろうである。自身の苛烈な「忍者」という枷を外されて、どうやって生きたらええねんとだらだらぷらぷらしている割合どうしようもない男が主人公だ。*1
そんなふうに自分が何をしたらいいのかわからずにぷー状態の人間など、現代では周りを見回してみれば、いくらでもいる。時代は400年以上前だとしても、問題設定、気分としてはまことに現代的である。さて、そんな現代的な気分の中で繰り広げられる筋としては、おおまかにいって二つ。いかにして御役目から開放されてしまった隙間をうめていくのか、というのがひとつの筋である。そしてもうひとつの筋は「束縛と自由」の問いかけだろう。忍者は最たるものだが、普通御役目から開放されて自由なんてことにはならない。
忍者にかぎらず、立場的に自由な行動をとれない人間が幾人も出てくる。こうした人間たちがいかにして「自由」を獲得し、自分の行動を自分自身で決定していくのか。とはいっても面白いのが、決してかっこいい理由や、崇高な理想が根拠たって胸にわいてくるような話ではないところだ。むしろ幾度もの偶然が積み重なり、事態にどんどん巻き込まれていくうちに、いつのまにかやらざるを得ない状況に追い込まれていたり、やる理由を見つけ出していたりする。
結局人間、何かををやりたいと理念が先行して行動を始めるのではなく、むしろ体験の中に身をおいて、その中からこそ様々な理念や理想、行動の方向性がうまれていくのだろう。そう思わせるようなお話なのだよな。なにしろ物語の始まりからして、ある時点からの回想として始まっている。その始まりは、『そもそもが、こんなはずじゃなかった。』なのだ。なにもかもこんなはずじゃなかった。こうなるなんておもってもみなかった。しかしそうなってしまったし、そうするほかなくなってしまうものなのだ。
主人公のぷーたろうは、ぷーたろうのくせに忍者という御役目から解き放たれて、しばらくは「俺は忍者に戻るんだ」と頑なに自分の元の道へ固執している。意識高い系忍者、あるいはこき使われても戻りたいと思う社畜系忍者なのだ。ところが日々をブラブラと過ごし、かつて相棒であり異国で価値観を身につけてきた忍者とやりとりをかわしていくうちに、忍者というかつての自分の使命だったものへ拘る理由がそれほどあっただろうかと自問するようになっていく。
縛られない状態を体験し、外の世界を知ったことで、当初思っても見なかった「忍者以外として生きていく」というある種の自由を実感していくことになる。それは実際に「放り出された」からこそ産まれてきた感覚だ。その後も彼は自発的な意志ではなく、周囲からの圧力や、生活のための止むに止まれぬ事情から様々な行動を起こし、否が応でも大きな流れの中に取り込まれていく。「そもそもが、こんなはずじゃなかった。」出来事の中で彼は自分の立ち位置を見つけ出していく……いや、見つけ出さざるを得なくなる話なのだといえよう。
忍者小説
冒頭からまるでハリウッド映画のオープニングかなにかのように城へ潜入するところから始まる。橋番にはあらかじめ吹き矢の針を仕込み、意識を朦朧とさせる。橋番の隙をついて、たやすく橋を通り、二の丸に侵入、内堀の手前まで到達する。堀には切っ先の鋭い杭が隙間なく打ち込まれているが、得意の肺活能力をいかして、杭の先端をつかみながら対岸まで辿り着く──。おお、ちゃんと忍者してるじゃん。主人公のぷーたろうの特技は肺活量がすごいという「そんなんでいいんかい」的な能力だが、他の忍者たちにもそれぞれ特技があるので、ゲームユニット的で面白い。
著者がメタルギアソリッド好きなこともあってか、スニーキングミッションを書くぜ! とやたらと細かく描写し城へと潜入していくのでそれがまた愉しいのだ。ユニット能力的な意味でも、任務遂行のやり方についても、忍者小説としての魅力が大きかったように思う。僕はどうも万城目学さんの書くキャラクタというよりかは、こうした細部への目が好きなんだよなあ。といっても、毎度すぐに見つかって忍者の癖に派手な斬り合いをばっちりやってくれるのだが。
殺陣の納得度
しかしその斬り合いも、納得度がちゃんと出ていてよかった。
殺陣の納得度とは何か。たとえばAとBが戦った時に、片方が勝った理由がよくわからないか、なんかよくわからんが強くて勝ったみたいな状態だと「えええ??」と納得がいかない。これは当然ながら納得度が低い状態だ。これは共感してもらえると思う。しかしなぜそんなことが起こるのか。それはたとえば「力関係が明確ではない」といったことがあげられるだろう。こうした明確な力関係の明示がないと、たとえば「主人公は超強いです」とだけいって「一般人との差」「ちょっと強い一般人との差」がわからない。そうするとどんな状況であっても「主人公は勝つ」しかなくなってしまい、闘いの場面にさいして勝つことへの納得でいえば「ただ主人公は強いから勝つ」みたいな残念なことになる。逆に負けたとしても「なんで負けたかよくわからねえ」ということになる。
じゃあどうすれば納得感が出るのかといえば、たとえば本作(とっぴんぱらりの風太郎)では忍者と一般人、一流の忍者と二流の忍者とそれぞれ明確に力関係と力の差が設定されていて、イベントごとに彼我の戦力差で「苦戦」するときの説得力がある。ユニット毎の力関係が明確に定められていると、その時々の状況での「ヤバさ」みたいなのが読んでいる側にもすぐにわかるようになる。たとえば一般の武闘派ぐらいであれば忍者一人で数人倒すのはなんとかなる。忍者vs忍者だと流派にもよるが基本的に互角。つまり忍者10人対こちらが多少腕のいい忍者3人とかだと普通にやりあったら絶対に勝てない、といったそうした「絶望的な状況」が明確にわかるように設定されている。
もちろんそのままだと勝てない。状況のわかりやすい設定が完了したらあとは「いかにして勝敗に納得感を出すか」の細かい話になっていく。忍者10人対忍者3人のような勝負で、「Aは死に物狂いの力を出してBを刺し殺した」といった描写で勝敗が決着してしまうなら、そこには納得感などまるでない。「なんだかわからんが勝っちゃうんだ〜〜」と思うだけだ。他にも突然「最初に設定したはずの力関係が突如変わる」ような現象、勝てるはずのないと一度は設定されたような状況が特に理屈なくくつがえったりすると「殺陣の納得度がない」ということになる。一方で忍者10人対多少腕のいい忍者3人で状況が設定された場合、3人が勝つだけの納得度の高い理由が演出されていると「殺陣の納得度がある」というわけだ。
本作ではその説得力の一つとして、「肺活量がすごい」「火薬を扱うのがうまい」「毒の扱いが得意」といった特殊能力持ちユニットがそれぞれの能力をいかして戦場を撹乱していく。もちろん不意を打つとか、相手の知っていない情報を突然喋って同様を誘うといった作戦の有無でいくらでも状況が変わっていくのだが、それがアクセントと戦力差がある時に逆転する論理になっていて面白い。舞台演出も凝ってるし。ただ多少ケチをつけるのならば敵の魅力が薄いことで、特殊能力持ちのネームドキャラもほぼいないし、作戦的に優れているわけではなく「単純に人数が多い」ぐらいしか絶望感を与える手段がないのは残念だったか。
まとめ
会話は軽妙だがハードな世界観だ。ま、忍者だしね。人は死ぬし、殺すし、身体は斬られる。主の命は絶対だし、それに違反すればまあ、殺されるしかないよね、ということで今までの万城目学作品とはずいぶん趣きが異なっている。が、そうした普通に死ぬ世界でしか、ハードな世界観でしかありえない「忍者の悲哀」もまた描かれているのであって、先に書いたような殺陣の完成度、スニーキングミッションの作り込みもあるし、ずいぶん完成度が高い。時代小説に時間を移した甲斐は充分にある作品だ。
- 作者: 万城目学
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2013/09/28
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*1:ちなみにとっぴんぱらりの方は、『秋田県地方において、昔話等の物語の最後を締める言葉。結語。』とはでなキーワードにはある。おしまい、おしまいみたいなものだろう。