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翔太と猫のインサイトの夏休み―哲学的諸問題へのいざない (ちくま学芸文庫) by 永井均

何か真剣に物事を考えようという時に、立ち返る場所を得た。物を徹底的に考えるっていうのはね、こういうことなんだよと教えてくれる本だった。

哲学とはなんだろうかと考えても「うーん、考えることかな。でも考えることが全部哲学っていうのもそれはそれでどうなのかな。認識について考えることかな。うーんでも認識について以外も哲学では取り扱うからなあ」と巡り巡って「まあ、別に哲学なんかどうだっていいか」となるのが(僕にとっては)常である。

気まぐれで大学の授業で哲学についてとってみてもそれは「哲学史」についてか「哲学者」についての授業で一体全体何が哲学なのか、哲学とは哲学をしている人たちについて考えるものなのかとこれまたよくわからないところに入り込んでいく。ニーチェのいっていることもウィトゲンシュタインのいっていることもフーコーのいっていることもわかるけどこいつらのいっていることの共通点ってなんなんだろう?

この『翔太と猫のインサイトの夏休み』は中学生・高校生向きの哲学の本だ。哲学とはそもそもなんなのかがよくわからないので、はたして哲学に「入門」があるのかどうかもよくわからないが、兎にも角にもこの本は哲学している。つまりそこには「哲学ってだいたいだけど、こんなことじゃないの」という答えがある。

子どもがいて、猫がいて、二人の対話形式でいろいろなことを考えていく。「いまが夢じゃないって証拠はあるのか」とか「たくさんの人間の中に自分という特別なものがいるとはどういうことか」とか「善悪の客観的な基準はあるか」とか「自分がいまここに存在していることに意味はあるか」とかとか。

哲学的諸問題へのいざない、と副題にあるが、猫と翔太くんの会話によってそうした問題を検討していく、考える工程を踏んでいくのは思いのほか愉しい物だった。というのも僕はここに書いてあるような問題はどれも一度考えたことがあるか、はたまた何かで読んだことがある。「この世界が夢だったとしてもわからないよね」と。それぐらいありふれた問答であり、例題であるということだ。

それでも本書を読んでいるのはとても愉しいのだから、その秘訣は、問い自体ではなく「語り」と「問題を問いなおしていく過程」にあるのだろうと思う。たとえば思考には道筋がある。最初に「○○はなんなんだろう?」という疑問から始まって、「○○はこうだな」とか「この場合はこうだな」といったふうに複数の考えが派生していく。そして「○○の場合はどうなるんだろう?」と次の問いかけへと進んでいく。

本書に出てくる例題はどれも基本的なものばかりだ。普通に生きていれば誰もが一度は疑問に思うであろう諸問題。そして多くの人はそれについて立ち止まって考えることもない。いや、子供の時はじっくりと考えたのかもしれないが、一度疑問を追求せずに通りすぎてしまうと「それはそういうものなのだ。気にしても仕方がないし」といって素通りできるようになってしまうのだろう。

実際追求せずにいることのなんと多いことか。「感じる」っていう言葉の意味はなんなんだろう、明確な自分の中での定義をもって「感じる」を使っている人はなかなかいない。「戦争」だって言葉があるから指し示せているような気がしているが、実際に「戦争とはなんぞや」とじっくり考えてみたことが在るだろうか。

本書はそうした素通りしてしまうような、普通なら「なんだつまらない」と捨ててしまうような事柄から「いや、そうではない。これはそんなに簡単な話ではないぞ」と見抜き、底なしの推理ゲームが始めていく。本書の猫にいわせれば、そうした「常識の再建」こそが哲学の課題なのだという。

「ふつうの人が考えないようなことを考えたじゃないか。哲学はね、決して人の目を引く奇抜な思想を作り出すようなもんじゃないんだよ。一見どんなに変てこな考えでもね、それが理にかなった、根拠のある考えなら、できるかぎり綿密に検討してみて、むしろ、ふつうそう考えられていない理由をきちんと理解しようとするんだよ。だから、いってみればね、あらゆる非常識を残りなく包み込んだうえで常識に達するのが哲学の理想なんだ。でも、たいていの場合、そこまで行き着くまえに、力つきて倒れてしまうもんだから、哲学者がまるで新しい思想の提唱者のように見えてしまうんだ。
 哲学は常識批判だなんて言われることもあるけどね、たしかに常識批判を含むけど、むしろ常識の再建こそがほんとうの課題なんだ。少なくとも哲学をやっている人自身はまちがいなくそう思っているよ。」

哲学ってなんなんだろうと、ウィトゲンシュタインとかニーチェとかがいっているようなことをどうやってひとまとめに分類できるものなのだろうという疑問は上記の記述でだいぶ解決されてしまった。いまさら。そうか、常識の再建かあ。本当に極々基本的な問題を捉えなおしていくのだけど、それが実に丁寧に、隅々までいきわたっていて「そうか、徹底的に考えるっていうのは、こうやってやるものなんだな」というのがよくわかる。

『一般の理解に反して、哲学とは主義主張や思想信条のことではない。その正反対である。哲学とはむしろ、主義主張や思想信条を持つことをできるだけ延期するための、延期せざるをえない人のための、自己訓練の方法なのである。』『もし、すべての子どもに哲学が必要だとすれば、それは裸一貫でものを考える訓練としてであり、それ以外ではないと思う。(中略)世界があり、自分がいて、他の人もいる。物が見え、体が動かせ、言葉がしゃべれる。それだけでも、思考の素材としてはすでにじゅうぶんすぎるほどなのだ』

「この世界は夢だったとしてもおかしくはない」とか「他人に本当に自分と同じように感じている主体が存在しているのかはわからない」といった本質的な思考は、そのまま世界の見え方を一変させる。たぶん世界が一変した子どもと、その世界を一変させるような経験を受けなかった子どもは、まるで別の道を歩むような気がしてならない。

本書は子ども向けの本ではあるものの、いつでも読むことでそこに立ち戻れるという意味で稀有な本だ。ここに戻ってくればいつでも「世界が一変するような感覚」にまた浸ることができる。いい本だった。

翔太と猫のインサイトの夏休み―哲学的諸問題へのいざない (ちくま学芸文庫)

翔太と猫のインサイトの夏休み―哲学的諸問題へのいざない (ちくま学芸文庫)