基本読書

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生きがいについて (神谷美恵子コレクション) by 神谷美恵子

昨日この本を読んだからというわけではないが、「若作りうつ」社会 (講談社現代新書) by 熊代享 - 基本読書今日は『生きがいについて』 by 神谷美恵子 初版は1966年。ちょっと昔の本になるが、ここで語られている生きがいについての話は現代に至ってなお意味を失っていない。読むきっかけになったのは『cakes』なる、会員登録型コラムサイトの中の一連載であるfinalventさんの書評シリーズの中で紹介されていたことだ。

暇な時にたまった見知らぬ連載を一気に読むのが愉しいのだけど、このfinalventさんの書評シリーズは一冊を丹念に掘り起こしていくもので書評というよりかは著者の人生録にまで踏み込んでいくより広範囲なものでまた違った楽しさがある。cakesの書評連載だとあとは山形浩生さんの連載があって、こちらも毎度紹介の幅が文学から科学ネタまで幅広くおもしろい(これは余談だったな)。

finalventさんの連載の中でもこの『生きがいについて』は『この本は読者にとっては、生涯の一冊となることが定められている本であり、むしろ本と呼ぶよりも人生を生き抜くための友人の言葉となる。「あなた」がそうした読者となるだろうか。その問いはおそらく読者が抱えた絶望と孤独の深さによって決まる。』とまで書かれている一冊『生きがいについて』(神谷美恵子)前編|新しい「古典」を読む|finalvent|cakes(ケイクス)(より引用)であるからにして、読まない理由がない。

日々平穏に過ごしている身からすると思いもよらぬことだが、世の中には日々朝がくるのがつらく、未来にたいして何の意味も見いだせず、ただ今自分が存在していることがつらいのだ、生きることがつらいのだという人たちがいる。この本が描かれた当時よりも、今はTwitterなどで個人が自身の心情を簡単に吐露できるので、そうした「思いもよらない」人たちとどのような形であれ接触する頻度は高くなっているだろう。

耐え難い苦しみ、身を裂かれるような孤独、未来への希望のなさ、何をしても楽しくないという倦怠。正直、そんな時どうしたらいいものか、まったくわからないものだ。「生きていれば希望がある」なんて日々をただ耐え忍ぶのがやっとで自殺の誘惑と絶えず戦っている人にたいして言えたものではない。何かをわかったような顔で、なにかできることがあればいってほしいという以外、家族でもないかぎりそれ以上のことをするのは現実的に考えてなかなか難しい。苦痛を変わってあげられるわけではなし、軽減手段を知っているわけでもない。

いったい私たちの毎日の生活を生きるかいあるように感じさせているものは何であろうか。ひとたび生きがいをうしなったら、どんなふうにしてまた新しい生きがいを見いだすのだろうか。

人が自殺に至るような場合、ほとんどの場合はそのマイナス面に焦点があたる。親からの虐待を受けていた、仕事をクビになった、周りとうまくやっていけない……しかしそうしたマイナス面は誰しも少なからず抱えているものでもある。借金がある、体調が悪い、夫婦仲がよくない、あるいは延々と孤独であることを恐れている、こうしたマイナス面を一つ一つつぶしていくのは殆どの場合不可能だと思う。

同じようなマイナス状況の中にあってなお、未来に希望を失わず日々を前向きに生きている人と、絶望しきっているひとがいる。その違いはマイナス面を抱えていても「生きていたい」と思うようなプラスの側面を持っているか否かだと思う。たとえばそれは絵の表現を突き詰めたいとか、そんな大層なことでなくてもいい。犬を飼い始めて、その犬の世話をし、日々を健やかに暮らしてもらいたいという、それだけでもいいのだ。

逆に考えると、生きていくうえでそうしたプラスの側面がなければ、マイナスばっかり積み重なってそんな思いをなぜ受け続けなければいけないのか、ということになる。非常に単純化してしまってすべてがこうだというつもりはないが、とにかく大きなものであれ、小さなものであれ、生きがいがあることはそれだけで心強いものだ。

「生きがい」と一言でいっても人によって大きく対象は異なる。たとえば僕はどうも文章を書いていると興奮状態になってくるので、なんらかの文章を書くのは生きがいになっていると思うし、本を読む、文章を書くといったこと以外でも時間があればあっただけ次から次へとやりたいことが湧いてくる。たぶん僕は生きがいの不足という状態にはないのだと思う。でもそれは他の人に適用できる条件ではない。

本書の構成をみてもらえればわかるが⇒「1 生きがいということば」「2 生きがいを感じる心」「3 生きがいを求める心」「4 生きがいの対象」「5 生きがいをうばい去るもの」「6 生きがい喪失者の心の世界」「7 新しい生きがいを求めて」「8 新しい生きがいの発見」「9 精神的な生きがい」「10 心の世界の変革」

4章までは「生きがいとは何か」というような生きがいについての複数の側面からの分析を加えていく。が、5章以後は生きがいが奪われた後、それがどんな状態であり、回復過程としてどのようなケースがあるのか、そしてその後何が起こるのかについて話がつながっていく。単なる生きがいについてではなく、生きがいが失われたあとの回復までの過程をおっていくのだ。

この本を読んだだけでは伺い知れないことだが、ここで「生きがい喪失者の体験談」として客観的に書かれているものの中には著者の神谷美恵子さんの実体験であると思われる例も含まれている。彼女の人生にまで踏み入ることはしないが(冒頭にあげたfinalventさんの記事を読むべし)つまるところ、本書は彼女自身が深刻な生きがいの喪失状況にあり、そこからの回復過程をさも他人ごとのように書いていく、ある種の自己療養へのささやかな試みの作であるようにも読める。

もちろんわざわざ自分の体験談として説明しないのは、客観性をとった分析の書として受け入れてもらいたかったからだろう。だが特に生きがい喪失状態からの回復からの章は、実体験としか書きようがない熱が込められていくことになる。客観と実感がそうとはしらされずにせめぎ合っている心地よさがあり、それだけで読むに値する一冊だ。冒頭のfinalventさんの紹介にあった『その問いはおそらく読者が抱えた絶望と孤独の深さによって決まる。』の部分は、同様の体験を背負っていれば背負っているだけ、彼女の状態にシンクロして、その問いかけにたいして理解が深まっていくからだろう。

もちろん生きがいについての分析自体はどれも至極示唆にとんだものだ。いくつも線をひいてしまった。たとえばこんなところとか。

なぜならば、人間はべつに誰からたのまれなくても、いわば自分の好きで、いろいろな目標を立てるが、ほんとうをいうと、その目標が到達されるかどうかは真の問題ではないか。ただそういう生の構造のなかで歩いていることそのことが必要なのではないだろうか。その証拠には一つの目標が到達されてしまうと、無目的の空虚さを恐れるかのように、大急ぎで次の目標を立てる。結局、ひとは無限のかなたにある目標を追っているのだともいえよう。

また社会的にどんなに立派にやっているように「客観的に」見えたとしても、自己にたいしてあわせる顔がないと自己と対面することを避けるようになるという部分も実体験があるだけにすぐに理解できてしまった。そう、人がどうとかじゃなくて自分で自分を裏切りつづけるのが一番つらい。そんな自分をみるのが嫌で、見ないように努めてしまいどんどんズレが大きくなってしまう……。

年代ごとにぶち当たる障害

ひとはそれぞれの人生の、それぞれの時期において違った課題にぶち当たる。その時には必ず生きがいのことが問題になるであろう。その時々において充実感を与えてくれ変化と成長への欲求を満たし反響、自由への欲求を満たし意味への欲求を満たすこと。ある年代にとってそれは仕事かもしれないし、途中からそれは子育てやペットを飼うことになるのかもしれない。その時々で違うかもしれないが、生きがいなくしては人生はとても退屈なものになる。

「若作りうつ」社会 (講談社現代新書) by 熊代享 - 基本読書で触れられており本書でも触れられていることだが、人は年代ごとに生きがいが変わっていく傾向があるが、現代は「大人になること」を強くもとめられない状況が整ってしまっており、生きがいの年代間移行がうまくいかない時代なのかもしれない。十代の頃に熱中したアニメやゲームに四十代を超えても尚熱中し続けいつかふっと「何をやっているんだろう」と覚めてしまう、といったように。

本書はその生きがい喪失状態からいかにして復帰するかについても書かれているのは先に述べたとおり。たとえばそれまでは充実していたとしても、愛する人を失ってしまったりテニスが好きだったのに事故で半身不随になる形で生きがいを失ってしまうかもしれない。本書ではそうした状況が「いったいどんな状況なのか」を提示しつつも、どのような回復過程がありえるのかを分析していく。

たとえば『昔から悩むひと、孤独なひと、はじき出されたひとはみな自然のふところにかえって行った。』というが今でいう自分探しでインドにいくみたいなもんだろうか。「どうやって生きがいを回復させたらいいのかな」という視点で読み返していたんだけど、自然回帰以外にもいくつかパターンがある。代替のパターン(息子を失ってしまったのでペットを飼う、養子をとる)置き換えのパターン(27まで酒と女に情熱を捧げていたが突如仕事に行き始める)などなど。

既に生きがいがある、もしくはあって失われてしまった場合にはその要素を分解・解析し別のものに転用するメソッドが使えるかもしれない。代替のパターン(息子を亡くしたから養子をとった)のようなもので、たとえば「文章を書くのが愉しい」であれば、「アウトプットが愉しい」とか「自分の考えをまとめるのがたのしい」に置き換えてみるとか。たとえ一方がダメになっても「楽しさの本質」を抽出し転用できれば別の方向へいける。

生きがいの喪失が致命的な問題になりえるのだからとりうる選択肢としては生きがいがなくなっても再度見つけ出すことができるようになるか、はたまた最初からいくつもの生きがいを抱えていることだろう。「自分のうちにさまざまな可能性を持っている人間は強い」ということだ。たとえば、こんな記事を書いたことがある⇒「やっていて楽しいこと」に気付くためには適当に生きるのが良い - 基本読書

まあ──兎や角いったところで「生きがい」なんて人生の根幹に関わる部分については、自分で決めるしか無いところではある。人が「君の生きがいはこれだよ」といってきたところでそれが生きがいにできるわけではないのだから。生きがいについて、だけでなく、そもそも苦しみや悲しみを抱えつつ、それを乗り越えて「生きる」こと全般について書かれた一冊だ。既にその過程を経験した彼女の客観と主観の入り混じった文章は人生においての道標のように感じられる。

生きがいについて (神谷美恵子コレクション)

生きがいについて (神谷美恵子コレクション)