ヴィンジの新作だー、と喜んで飛びついた人間はいったいこの日本にどれぐらいいるんだろう。なんだか全然話題になっていない。なかなかお目にかかれない奇想と、それを支える世界の土台を入念に作りこんでいき、しかもそこに大きなプロットを複数走らせてぐいぐい押し込んでいく重量級の作家なので、がっつりと世界にひたって楽しみたいときには食い込んでくる作家の一人だ。
それに何より、ヴィンジの作品はまったく想像もつかない状況を規定してそこで何が起こりえるかを実験していくSFならではの面白さに溢れている。後述するが犬型の集合知生体といった人間とはまるで成り立ちの異なる生き物や、宇宙の場所によって発揮できる思考速度と物理法則が異なるという世界デザインなどなど、「異質さ」を受け入れていくことはそのままSFの魅力のひとつだ。
この『星の涯の空』だが、シリーズ物の第三作になる。第一作は遠き神々の炎という作品で遠き神々の炎 - 基本読書 時間軸的にも本作の直前ということで完全な続きものだ。とはいっても原書が出たのは1992年で日本語訳が出たのが1995年なので、時間の開きが20年近くある。直接的な続きものにも関わらず20年もたってからよくそんなもん今更訳したし出したよな、と他人事のように東京創元社に感心してしまったものだ。
ところが実際には原書も20年近くの間を置いて出されていたので、ある意味原作踏襲(期間まで)になっている。読み始めてすぐは時間も出来事も繋がっているので「これ前作読んどくの必須だなあ」と考えてしまうが、実際は要所要所に前作情報が仕込まれ、時代も前作より10年後の世界を書いていくので違和感はまるでない。元々20年の期間があいても問題がないように、異なる読者を取り込めるように設計されているのだろう。
簡単に『遠き神々の炎』からのあらすじを紹介しておこう。「宇宙がヤバイ」的なカタストロフが起こりつつあり、主人公たちはそこからからくも逃れた一隻だけの宇宙船にのっている。逃げたのはいいものの犬に似た集合知性生物「鉄爪族」のいる惑星に不時着してしまう。コールドスリープから抜ける前に半分ぐらい載ってる子供たちが殺されるわ、主人公の両親も目の前で斬り裂かれるわでいいことがない。
殺されたり殺したり、彼ら彼女らにせまってくる「宇宙がヤバイ案件」に対抗するために鉄爪族たちの文明に自分たちの技術力を付与してやって加速させないといけないしでてんやわんやの戦いが進行するのが『遠き神々の炎』の主なお話だ(すっとばしたが)。『遠き神々の炎』読者は当然だが「宇宙がヤバイ」ことはわかっていて「文明を加速させなければいけない」こともわかっている。
ところがそうした事実を直接的には経験していない若い世代は、「何十か何百年後だか何千年後だかに宇宙がヤバイからお前らはその為に備えろ」と言われても「なにいっとんじゃうさんくせー野郎だぜ」と怒りだしてしまう。実際『星の涯の空』からの読者は「宇宙がヤバイ案件」の描写を一切読むことがないのでかつての英雄とされるやつらが「宇宙がやべえんだよおお」といってもこいつが本当のことを言っているのか、判断がつかないだろう。
『遠き神々の炎』からの読者は「かつての英雄」が世代交代が起こりつつあるコミュニティの内部で四苦八苦していく様に一喜一憂し、『星の涯の空』からの読者は「かつての英雄」とされている者達の胡散臭さ、その能力に対しての疑問などを持ちながら「世代が変わっていくこと、異なる文明レベルからくる齟齬」の葛藤に追い込まれていく。どちらの立場からでも葛藤があって、これが愉しい。
プロットとしては次の3つを進行させていく。このどれかにピンとくるならオススメだ。個人的にはどれも好きなテーマ。
1.人間と成り立ちの違う生物との文化的融合は可能なのか
2.異なる技術レベルを持った文明の衝突
3.英雄のその後
1.人間と成り立ちの違う生物との文化的融合は可能なのか
1.については遠き神々の炎 - 基本読書でも少し書いたけれども、複数個体からひとつの自我を形成する犬型の知性体というアイディアがメイン。個体の集合でひとつの自我を形成するということは、常に自分自身を作り替えていけるということだ。最善を目指して個体を常に入れ替え、生命体としてのあり方をある程度コントロールすることができる。たとえばひとつの自我を個体の寿命を遥かに超えて受け継いていくことが可能だ。
「個体」は付け替え可能な身体の一部という考え方が基本なので、個体=全てである人間と、捉え方が根本的に異なる。実際問題まるで異なる成立過程を持った知的生命体が突如同じ空間を占めたらどうなるだろうか? なかなか考えても想像が及ぶものでもないが、ヴィンジのこの犬型の集合知生体をまるでみてきたかのように、本当にそんな知性体がいてもおかしくないかの如く精密に描いてみせる。
音楽が導入され、珍奇な生物としてサーカスをやってみたり、あるいは人類が持ち込んだテクノロジーによって犬型集合知性体の文明が様変わりしたり──。そうしたまるで異なる知性体同士の交流と、その文化面でのズレはなかなか解消されるものでもない。どこまでもすれ違いが描写されていくのはヴィンジの体力が凄いな、と感心するところだ。
異なる知性体を想定しても、どうしたって人間に似てきてしまうものだと思うけれども、その点妥協せずに、ずっとズレを書いていくのだから。作中で人類側が常にこの犬型集合知生体とのやりとりに四苦八苦していく中で、読者であり人間である我々もまた異なる知性体のあり方を、普通の人間を読んで理解するのとは全く別の脳みそを使って理解に全力を傾けていかなければならない。
人間とはまるで成り立ちが異なる、文化も異なり理解に苦しむ存在──本作の犬型集合知性体は、異生物を書いた中でもSFとしての魅力を凝縮した、見事な一例だと思う。
2.異なる技術レベルを持った文明の衝突
2.について。これは説明にまた文章を必要とする部分だが、個人的にはこれが一番好きな要素だ。最初に、本作の銀河系空間の性質をちょっと解説しておこう。銀河系は中心部と周縁部とで物理的性質が異なる。銀河系中心部では思考速度がきわめて低速になり、事実上の思考停止状態に。コンピュータも処理速度が落ちる。その外側が「低速圏」になり、地球がここに相当する。光速以下の移動も通信もできないため、お互いは孤立した状態にある。
最初に「奇想」といった意味がある程度は理解いただけただろうか。宇宙の箇所によって物理的性質が異なるというのは想像がおいつかない。しかし、発想の元になっているのは技術的特異点という概念だと思う。この世界は場所によって思考の速度、行使できる科学レベルがまったく異なる。それはたとえば1900年の科学の進歩速度と2500年の科学の進歩速度がまるで異なるであろうことの比喩ではなかろうかと僕は考えている。
ヴィンジは場所によって思考の速度、光速を超えられるかどうかを分類することで、特異点以前以後を「時間軸」でなく「地理的に」表現してみせたのではなかろうか。時間によって区切られていると「特異点以後」はずっと技術の進化速度は増すばかりだが、地理で区切ることによって対立構造がうまれる。ヴィンジが狙ったのはこの対立軸を利用して文明の発展を描くことなのではなかろうかとこの作品を読んで思った。
文明レベルの差異は本作ではいくつかの対立軸にわかれている。「人類/鉄爪族」の文明レベルの差異、そして同じ人類の中でも既に「延命化治療」を受けているかいないかといった差異があり、先に書いた宇宙レベルでの「速い場所/遅い場所」がある。様々な段階ごとに文明レベルの差が物語の葛藤となって現れる。今の我々からすれば「飛行船」なんて遅くって使ってられないが、車も船もない鉄爪族にとってみれば「飛行船」はひとつの革命である。
かつてあった原始的な文明があっという間に進化を遂げていく様を本作は1000頁近く使って入念に練り上げていく。苦労して何日もかけて歩いた道のりが、ほんのすこしあとでは飛行船で数時間の距離になる。それはまるでサイエンス・フィクション版Civilizationの如く、「特異点以後」の人類からすれば笑っちゃうような進歩(ぷぷぷ、まだ飛行船なの??)だが実際にそれを体験していくレベルでは「革命」としかいいようがない。
延命化治療を受けてその後千年だって生きられる人間は、千年の時間スケールで物事を考え備えることもできるが延命化治療を受けておらず百年かそこらで死んでしまう人間は千年のスケールでは物事を考えることが出来ない。ある意味当たり前のような気もするが本作ではそうした過程を置くことによって人類間での対立が過激化していくのも面白さのひとつだ*1。
文明を取り込み進化し、文明レベルの差が「異生物間」「同生物間」で解消されていくのと同時に「速い場所/遅い場所」の区別もまた崩壊していく可能性のある伏線がはられていく。ようは「遅い場所」は本当に「遅さ」から逃れられないのか? というそもそもの疑問だ。世界の根幹に疑問をなげかけるこの問いは、わくわくさせてくれる。が、まだまだシリーズの途中であったようでこの巻で話は終わらず「つづく」になってしまうのは残念なところだった(次で完結かな?)。
3.英雄のその後
3.について。前作においてひと通りのことを成し遂げた人達が今作においては一転窮地に追い込まれる。失策がいくつもあったし、反乱分子が自分たちの領内で育っていることを知らぬままに過ごしてしまった。遠く離れた惑星で、少数の子供達だけでもそこにはやはり対立が生まれるどうしようもなさ。そして10年も時間が経てばかつては子供だったやつらも恋をし、子供を産むよね、っていう当たり前のところに触れて「時間の変化」をみせてくれるところもまたよかった。
もっとも──前作で暴虐無人な強さをみせたヨハンナは二十も半ばを超えてなお無鉄砲娘なのだが。変わらない部分も含めて愛おしいキャラクタ達である。どちらから読んでもいいが、どちらかが気に入ったらもう片方も読んでみるといい。どっちかというとこの二作目は完全に「次回へのつなぎ」、ホビットでいってもロード・オブ・ザ・リングでいっても二作目の役割を持っているので、盛り上がってきたところで終わってしまう。そこだけがちょっと残念だったけど、SFとしての面白さに満ち溢れた素敵な作品だ。
発掘してきたInterview
こっからは余談になる。Interviewを漁っていたらハードSFについてちょっと面白いことを語っていた⇒A Chat with Vernor Vinge | Tor.com 2011年の記事なのでThe Children of the sky(本作)にも言及がある。ちょっと訳してみよう。
インタビュアー:あなたの書く現実の科学に根ざしたフィクションはしばしばハードサイエンス・フィクションと呼ばれるけれども、real scienceの範疇で書くことはフィクション作家にとって重要だと思いますか?
ヴィンジ:いいえ。というのも、ハードサイエンス・フィクションはサイエンス・フィクションのサブジャンルですよ。しかしハードSFと通常のSFの垣根というのはぼんやりしており、議論の余地のあるものです。たとえば、いくらかの人は超光速航法が出てくるSFをハードSFとは認めないと思います(が、私は違います)。
インタビュアー:私のたくさんの友人ががハードSFはまるで科学論文のようだと不平をこぼしています。追いついていくためには内容が濃密で理解するのが困難だし、科学か技術への理解を求められます。このような要求にたいしてあなたはどう返答しますか?
ヴィンジ:幸いなことに、読者には幅広い層がいます。私が楽しむことができる以上に、論文ライクなストーリーを好む読者達を知っていますよ。私の目標は専門的な部分を、まるで不明瞭な魔法のようにみなして、読者が楽しめるように書くことです。同時に、科学について考えたい読者に対して、同じストーリーでありながらも楽しめるように書きたい。これはトリッキィな目標だし、失敗したらどちらの読者層もおじゃんなんだけどね!
超光速航法をハードSFと認めるというヴィンジの考え方は異端的だ。ただ、彼はこの20〜30年の間にシンギュラリティが起こって科学も技術も凄まじい速度で進歩を始めると予測している学者の一人だから、彼にしてみれば超光速航法もそう遠い未来の絵空事ではないのだろうね。それを認めるんだったらこの世にただのSFなんてなくなっちゃいそうなもんだけど。
またハードSFの科学的な描写の正しさとそれがわからなくても面白いものにすることをトリッキィな目標と言っているのも興味深い。でもこれ、ハードなSFを指向している人ならみな考えていることのような気もするな。藤井太洋さんの『オービタル・クラウド』なんかも最大限配慮されているし、電子書籍版には語句解説までついている。
まあ、語句解説がついたからっていってハードSF自体の売上が伸びるかっていうとそうは思わないけどね。ちなみに──このヴィンジの『遠き神々の炎』『星の涯の空』に関しては話の大部分が未開地域で行われるため理解は容易だ。
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