基本読書

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借りの哲学 (atプラス叢書06) by ナタリー・サルトゥー=ラジュ

本書は「借り」の哲学について語っている。

大学生の頃は新自由主義にかぶれていたものだった。ところが誰もが自由であるといっても誰もが「産まれた時から国家というシステム、歴史によって創りあげられたシステム」の中で生きるという「借り」を背負っている、そうした「借り」にたいして無責任な態度をとる自由主義は少し間違っているのではないか、というなんとか主義の話を読んでから「それもそうだなあ」と思うようになった。

あれ以来僕の主義主張は新自由主義を離れてコミュニズム方面へ一度いってそれもいきすぎるとなんか違うんじゃねえのとバランスをとって以降、なんだかよくわからない宙ぶらりんのところをふらふらと揺れ動いているままだ。でもそうやって常に曖昧なところをぶらぶらと揺れ動き、バランスを取り続けるのが知性的なあり方なのかもしれないなと思いもする。

現代においてはほとんどあらゆるものが貨幣に置き換えられてしまう。「負債」とは金で支払われるものであって、金で支払ってしまえばあとは「何の関係もない」ものになる。さっぱりしていてわかりやすい。お金などという便利な概念がなかった時代は「借り」とは明確な指標を持たないがゆえに精算不可能なものであり、その為返済が不可能で簡単に奴隷化されてしまっていたという。我々は貨幣経済の発展にともなって「負債」を「金」で測るようになり、借りから自由になった。

ところが完全に自由になったかといえばそういうわけでもなく、今度はローンや借金といった金にまつわる負債が人々をしばるようになり、みなみなむしろ望んでローンを請け負っていくぐらいである。しかも生きるため、それだけのことにも金がいる。たしかに無限責任性の如しな「無限借り地獄」からは抜け出せたかもしれないが今度はお金がなければ「借り地獄」から抜けられないわけであって別の袋小路に入り込んだ気がしないでもない。

経済活動への信奉、自由への信奉が行き過ぎると冒頭に述べた僕のような考えになる。人間は自立した人間であり、自由であり、いかなる意味でも他者のコントロール下に入るものではないのだと。完全に自由なのだと思い込んでいる。ところが「借り」の概念からすれば我々は日本に産まれた瞬間から、「日本が積み上げてきたシステム」「親、病院のお世話」「食物を得られる環境の整備」などから始まってインターネット一つ利用するのにも過去の膨大な技術的蓄積によって成り立っている。

インターネットに接続するのもそうだが、目の前にあるパソコンも、インターネットの中にあるコンテンツも、本来であれば返しきれないほどの莫大な「借り」だ。たとえばこうした考え方を持つ人間はたとえば「ホロコーストの責任を過去の意思決定に何一つ関与していない現代のドイツ人に問うべきか否か」という問いには「個人に責任はないという前提のもと、歴史に対して責任を持つべきである」となるだろう。

産まれた時からすぐに一生かかっても返しきれないほどの「借り」を既にうけているのだから、それを市場経済の理屈で「完済」するのは不可能である。じゃあどうしたらいいのだろうか。無理だもーんと言い切ってしまって享受していればいいのか、といえばそうでもない。たとえそれがわかりやすい金の貸し借りのように指標化されなくても、借りた側はやはりなんらかの負い目が残り、相手に返そうと思うものだ。

たとえばネットから僕は多大な恩恵を受けているが、それに対して等価の贈与をすることはできない。無理だとはいってもこうやってせこせこと少しでもマシな文章をWeb上に残そうと出来る限り誠実に書こうとしているのは「インターネットへのひとつの恩返し」であるともいえる。このブログがまた別の誰かのこやしになってくれればいいという祈りのようなものだ。そしてその祈りは僕がネットを使う上である意味では「借りの解消」の機能を担っている。

一方誰かが僕のブログを読んでそれを「贈与」だと思ったとして、その人は僕に対して何もする必要はない。無料で公開されている文章なのだから、無料で読めばいいだけの話だ。でもそれを「贈与なのだ」と思い込み、これに返礼の義務があると感じた人がまたWebに文章を書いたり、また別の何かにして還元されていく。僕がこうして書いているように。贈与と借りの連鎖とはたぶんこのようにして繋がっていく。

借りを返すというのは、つまり「受けたものをそのまま相手に返す」必要があるものではない。親に受けた恩を親に返せなかった。その場合は自分の子供、もしくは周囲の人間に返すことになるだろう。借りは経済的な指標を持たないので、表層的なことをいえば返す必要も生じてこない。親にどれだけよくしてもらったとしても、そんなものこちらが頼んだことではないとつっぱねたところで別に法律は規制しない。ただ嫌な気持ちが残るだけである。

とまあ、結局のところ本書がいっているのはそれぐらいのことだ。社会や他の人にたいして借りがあると認めること。そしてそうした借りが大いなる負債となって人々を縛りつけ奴隷にするようなことにせず、時にはちゃらにしてしまえるような制度・関係を作りつつ最適解を模索していかないといけないね、という結末部はこの「借り」の概念をどう制度に入れ込んでいくかという視点で読むと、結構がっかりなまとめ方ではある。

この本に限ったことではないが、なかなか面白いお題をぶちあげて論じていって最後には「でもこのやり方も一長一短あるからいろいろとコントロールしていく上では気をつけていかないといけないね」で終わってしまうものがよくある。結局どうやってコントロールをしていくのか、舵取りをするのかというのは「その時がどういう状況なのか」によって変わってくるもので、マニュアル化しにくい部分ではあるが、本を読んでいるだけの限界を感じてしまう。

本書では「借り」を拒否する人々といって、「自分は誰に対しても借りを預けていない完全に自由な人間である」と間違った現実認識を持っていたり、あるいは借りを認識していながらも意識的に踏み倒そうとする「経済合流主義者」などの紹介もある。が、実際には世の中借りの連続であって逃げきれるもんでもない。結局制度がどうとか以前の問題だ。「借り」から目をそらして生きていくのは、ようするに現実をがんばって否認しようとしているわけで、なかなかにつらいと思う。

制度の前、自分自身の問題としてこの「借りの哲学」を内面化できているかどうかというのは人生において「しっくりくる感じ」を持てるかどうかの違いになってくると思う。「人生においてしっくりくる感じ」とはようするに「生きていてもいいんだ」という実感であったり、「自分は正しい方向へと向かっているんだ」という確信であったりするんだと思うんだけど、それがあるのとないのとじゃ随分生きやすさが違う。そうしたマニュアル的な事象の分類化とそれによる把握だけでも、価値のある一冊だ。

借りの哲学 (atプラス叢書06)

借りの哲学 (atプラス叢書06)