基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

倚天屠龍記 by 金庸

倚天屠龍記は中国の小説家金庸による武侠小説の1シリーズ。射雕三部作と呼ばれる三部作物の、時系列的には最後のシリーズになる。ただしこの三部目は時間もいっきに飛び、一部と二部の登場人物はみな死んで伝説のみが残っているような状況なので、読む順番は特に気にしなくても良い。すぐに紹介するが、1961年に連載を開始した小説で既に優柔不断な主人公が各国のお姫様や美少女の女の子たちに言い寄られるというハーレム物プロットを展開させている傑作だ。

ちなみに武侠小説とは日本の時代小説と伝奇小説をミックスしたような特殊な精神性を描いた小説ジャンルのこと。日本で言う武士のような特殊な価値観を持った、武道で何事も解決してしまおうとする野蛮な人間を書いていくジャンルのこと。少林派が日本だと有名だが、そうした○○派がそこら中に乱立しており、達人たちが日夜腕を競い合っている世界観。現実的な武道ではなく、内功や外功といった概念があるので山田風太郎的な伝奇バトル物と考えた方がいい。

三部作でそれぞれの主人公の性格は大きく異なっている。第一部では主人公についてその性格を純粋素朴、正義感そのものである主人公に設定した。射雕英雄伝 by 金庸 - 基本読書 続く第二部ではしかしそうした旧来のルールが別の側面からみればまたひとつの悪であることを制度に反発し、反発せざるを得なかった自由奔放な主人公を設定することで書いた。神雕剣侠 by 金庸 - 基本読書 

この第三部では主人公はそうしたしがらみから解き放たれているように見える。純粋素朴ではあるもののルールを絶対的に守るわけでもなく、かといって道を外れているわけではない。第三部倚天屠龍記において主人公は自らの意志ではなくうまれもった環境からして迫害されている。罵り合い、対立する陣営の父母を持ち、さらには武林中から終われ極悪人と呼ばれる者を義父とする最悪な立ち位置からのスタート、まさに茨の道だ。

最初からルールにつまはじきにされ、それでもルールを順守し、みなを丸く収めようという「争い事が嫌いな和平タイプ」である。平和が長く続くと日本の若者を見ればわかるように性格が温厚になり喧嘩もほとんどしなくなるが(日本のちょっとヤンキーっぽい若者の礼儀正しさを見よ)、金庸の主人公群の変遷もそうした時代背景に影響を受けているのかもしれない。

抽象的なあらすじ

物語のプロットを抽象的に説明すると、対立する二つの組織群があり、主人公はその対立する組織群のそれぞれの重鎮の息子。さらには武林中から狙われている男を義父に持ち、「それを手にした者は武林を制覇し、天下に号令することができる」という、倚天剣と屠龍刀の噂を巡って争いが起きたり、いざこざが起きて仲介に走ったり刷ることで物語は前に進んでいく。

金庸の作品で多いパターンだが基本的に何か圧倒的な力を持ち、陣営のパワーバランスを変えてしまうような秘宝を各陣営が争っているうちに主人公がひょっこりその秘宝を読んだり会得してしまったりして超凄いパワーを得ることで争いの勝者になったり、収めたり、あるいはそのパワーゆえに迫害を受けていくことになる。

主人公である張無忌の元にはそうした力を狙って何人も陰謀を持った人間が近づいてきてピンチに巻き込まれることになるが、この「強大な力を持った何か」を転がし続けることで話を展開させていくのは確か物語の技法としても名前がついているぐらいにメジャーなものだ。

金庸はこうしたメインプロットに恋愛だったり歴史問題だったり組織間の問題だったりという真面目に語ると面倒くさくなりそうな問題をさりげなくからめてくるので、シンプルに読もうと思えばすごく簡単に読めるし、深読みしようと思えば当時の中国における諸国間の歴史問題や、各組織のパワーバランスを考えていろいろ面白く読める、非常にうまい語り方だ。

1961年のハーレム物

特徴的なのは物語序盤において主人公が伝説の名医から医術を教わる「医師」であるということだ。傷ついたものはみな治す。死者をできるかぎり出さないようにする。殺し殺されが当たり前になっている武侠世界において、医師として存在している主人公の存在は特異だ。本シリーズのテーマは一言にしてしまえば「調和」とか「争いの連鎖を止めること」といえるだろう。

武林といえば師匠の敵を討たないとまるで人間でないかの扱われ方をするし、基本的に仇討ちの文化である。それなのに主人公である張無忌は相手側にもなにか事情があったに違いないと考えそうした復讐を思いとどまらせる。幼少期からの母と父と義父の実態と、世間での言われようとの乖離にさらされてきたからこその「裏には何かあるかもしれない」という深読みの性格になったのであり、物語として一貫性が感じられる。

そしてそうしたテーマ性の帰結として、張無忌はこれまで一人の女の子と添い遂げてきた金庸主人公ズを尻目に幾人もの女の子と仲良くなり、結局誰か一人に決めることも出来ない。優柔不断な性格が災いし幾人もの女の子とフラグを立てていくさまは現代ではライトノベルなどでお馴染みになっているハーレム物そのものだが、大衆娯楽小説としてこんな時代からしっかりと取り上げられていたんだなあと感慨深いものがある。

もっともそのキャラクター性であったり、プロット自体はライトノベルとは違いかなりハードだ。何しろ武侠小説の世界の女どもときたら男が浮気したら平気で自死しようとする。自分の思い通りにならなければいっそ皆殺しにしようとする凶悪な女の子、自分の国を捨ててまで賭けている女の子、とその振り切れ方がすごいので容易にハーレムなんて築こうとするのならば男側も女側も命がいくつあっても足りない。

師匠のいうことは絶対であるという世界でもあるから好きな相手に向かって「あいつと結婚したらお前の子供の代まで呪ってやる」「あいつに媚を売ってあいつの持っている秘宝を奪え」というむちゃくちゃな難題をつきつけてきて、それを死ぬ覚悟で実行したりしなければならないのだから女の子側も大変なことだ。葛藤が激しすぎてロミオとジュリエットどころじゃない。関わってくる女の子がみなペルシャのお姫様だったりモンゴルのお姫様だったりするので、必然歴史小説的な趣きもおびてくることになる。

キャラクタ一人一人にそこに至るまでのドラマがあり、容易に付きあうこともできない因縁と事情があり、それぞれが抱えている歴史がありと普通に読んだらものすごく重たく、かつ長大な物語になりそうなものだが金庸は見事に圧縮し、痛快娯楽小説に落としこんでくるからさすがだ。いきいきと自分たちの目的をおいかけ、あるいは惑わされていくヒロインズたちがこの物語の真の主人公といえるかもしれない。

というのも主人公はとても魅力的とは言いがたいからだ。優柔不断なのはいいにしても、それは別の側面でいえば何事もすぐに決断しない、決断を保留し最善の道を探り、復讐を収め四方八方を丸く収める才能であるということだ。武林の絡み合ったいざこざを、殺さずの精神で主人公が解決していくのはいいが、結局女には弱くあっちへ懸想しこっちへ懸想し、それもさすがに武侠の世界観なので思い切った軟派ものにするわけにもいかず、煮え切らない微妙なキャラクタになってしまっている。

因縁のつくりかた、容易に付きあうこともできない状況の設定、そして別れに至るまですべてにおいて徹底的にやりきってしまっている感がある。ハーレム物の元祖がどこにあるのかなどということを探ろうとも思えないが、当時これだけの物を作って果たして金庸が中国社会にどう受け入れられていたんだろうか。今では中国一といってもいいぐらいに有名だが、当時の評判が知りたくなった。