基本読書

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女のいない男たち by 村上春樹

村上春樹最新短篇集。場所も立場も語り口も変わってぎゅっと詰まった要素を堪能できるので短編が好きだ。タイトルになっている『女のいない男たち』は単に短篇集の中のひとつからタイトルをもってきただけではなく、この短篇集全体をつらぬくひとつのテーマ、視点になっている。むさ苦しい男たちばかりが出てきて汗臭い物語を展開するのかと思いきや、全編さまざまな形で女を失った男たちをウェットに描いていくのだ。男の精神的な脆さがさまざまなシチュエーションで味わえる短篇集になる。

まあ男と女の関係もいろいろあるものだと当たり前のことを読みながら思う。そりゃ人間の間のことなのだからいろんなことがある。出張から一日早く帰ってきてみたら妻が男とベットインしていた、だったり、癌が発覚してずっと連れ添うと思っていた、相性の良い相手が、あっという間に離れ離れになってしまったり。妻として関係を結ぶのではなく、不特定多数の相手とドライな関係を築く場合もあるだろうし、あるいはのめり込みすぎる場合もある。

かつて深く付き合った女を失った男たちはみな一様に何かが欠けており、その喪失をなんらかの形で補填する必要に迫られることになる。とにかく「失った後そのまま何事も無く平常的な生活に移行する」ことは、深く愛した女性を失った場合はできない。とにかくこの村上春樹世界ではそうなのだ。放っておいても男と女は交尾をし、勝手に別れていき、そして深く付き合った女と別れた、あるいはそもそも相手にすらされない男は孤独が染み渡っている状況なのだ。

そしてもちろん村上春樹さんによる短編なので、喪失からの補填作業にはなんだか不可思議なことが伴って起こる。あるいは不可思議な人間たちがでてきて、補填作業自体がとてもおかしなことになったりする。基本的にみな変てこな人達だ。変てこなのだが、その彼らの話にはたしかにその変さを成立させている現実に根ざした部分があって、それが組み合わさると変さが立体感を持って立ち上がってくる。とても身近な存在に感じられ、自分のありえたかもしれない1ルートとして捉えられるようになってくる。

シェエラザード』という短編に出てくる女性はそうした変てこさと、それを成立させている奇妙な現実感のバランスが素晴らしかった。羽原という男と定期的に、事務的にセックスをする女性は、まるで千夜一夜物語の王妃シェエラザードのように自身の物語を話してくれるのだがそれがまた変てこなのだ。それはかつて高校生だった頃に自分の好きだった相手の家に忍び込んで鉛筆などの身の回りのものをもらい、盗むのではなく、かわりとして自身のタンポンを机の引き出しの一番奥に入れたり、ノートの中に自身の髪の毛を入れたりするという空き巣の話なのだった。

一回で済んでいるのなら若気の至りでなんとか済んだのかもしれないが、癖になって何度も侵入を繰り返してしまう──なかなかトレースしがたい思考だ。でも侵入して整理整頓された部屋を見回し、ノートの文字をみるだけで地味な性的興奮を得るところとか、タンポンを机の引き出しの億にいれてその場所を離れた後もそのことを自分だけが知っていることとして興奮に転換していく楽しげな描写は実感がこもっていてとても良いものだ。こんな人間がいてもおかしくないなと、そう思わせるのは小説家のひとつの仕事だが、村上春樹はとても変てこな人達を書きながらもそれを成立させている。

「女のいない男」になるということは、単なる字義的な意味を離れて随分と観念的な内容として本作では扱われる。単に寂しい、孤独だ、というだけはない。シェエラザードでは女が与えてくれるものについて次のように語る。『現実の中に組み込まれていながら、それでいて現実を無効化してくれる特殊な時間、それが女たちの提供してくれるものだった。』 この短編の男の場合、女を失うとはつまり、現実を無効化してくれる特殊な時間を失うということだった。

一人の女性を深く愛し、それが失われてしまうことは人間を深いところから根本的に変質させ、いつまでも染みとしてとどまり続けることなのだと、各種短編を読んでいると思うようになる。結局深く愛するということは、それをほとんど自分自身と同一化させてしまうようなことなのだろう。突如としてそれが切り離されると、精神的な意味では自分自身が断絶させられたようなものだ。

いったん追い立てられると男というのも弱いものだ(あえて男に限定するが)。特に精神的な弱さについてはさまざまな形でこの短篇集はそうした男の弱さを書いているように思え、読後感は爽快でもなんでもなく、とてもしんみりとしたものになる。そうなのだ、我々は時にとても脆くなり、はたからみたら滑稽だか狂っているかのように見えることをやりだしたり、あるいは極々個人的なことに集中する必要が出てきたりする。たとえば突然儲からないバーを初めたりして。

イエスタデイを関西弁で歌う、木樽という屈折した男だったり、『ドライブ・マイ・カー』で子宮がんで死んでしまった妻がかつて短期的に寝ていた男と友人関係になってさまざまなことを考え、抜け出せない思考の渦に落ち込んでいくところなど、みなそれぞれのやり方で女の喪失をこじらせて、あるいは自分では対処しているつもりになっているものなのだろう。

僕はここに描かれていく物悲しげな男たちに随分と共感を覚えたよ。

女のいない男たち

女のいない男たち