基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

恋するソマリア by 高野秀行

あの衝撃的な謎の独立国家ソマリランド by 高野秀行 - 基本読書を出してからおよそ2年、高野秀行さんによる続編が出版された。前作は独立国家ソマリランドという「場所」「歴史」「人間」の面白さに相乗効果的に高野秀行さんの視点と行動力、そして文章力の面白さが重なって破壊的に面白くなった傑作だ。ただしこれは独立国家ソマリランドという異常な成り立ちと他にはない文化を持った社会の全体の見取り図を提供し面白かった部分もあるので、続編である本作ではある程度慣れてしまっているので衝撃も少ない。『謎の独立国家ソマリランド』が「そもそも独立国家ソマリランドとは何なのか」に大上段に掴みかかっていった作品だとするならば、『恋するソマリア』はそこで拾いきれなかった部分を拾い直す日常編とでもいおうか。

帰ってきた高野秀行、帰ってきたソマリランド

ソマリランド自体の魅力、あるいは高野秀行という作家についての総評については前掲の記事とこっちでも読んでおいてもらいたい⇒高野秀行という作家 - 基本読書 ソマリランドの本を読んでからドはまりして他の本もほぼ全部読んだのだけど、面白いノンフィクションを書く人間として右に出る物はいないと思わせられるほどの逸材だ。まあとにかく自分の身をはって何にでも挑戦していくのだが、時としてその挑戦は取材の為なのかはたまた本人が徹底的にダメ人間だからなのかと思わせられるところがある。本作でも早々に、ソマリランドに戻っていった著者がカートに駆け寄っていく様は完全に中毒者である。

だいたいアヘン王国潜入記でアヘン中毒になっている著者だからいまさらカート中毒になろうがおかしくはないのだが、嬉々としてカートに走り寄っていく高野秀行さんをみるとただの読書だが「ああ、帰ってきたんだなあ」と気持ちが共有できる。それぐらい気持ちがダイレクトに乗っかっている文章だ。カートについてはこれが本文の抜粋でよくまとまっている⇒第2章 3)知られざる覚醒植物カート - 謎の独立国家ソマリランド。カートをむしゃむしゃと食べることで覚醒して、集中力が増して、とくにアルコールなどのような酩酊状態に陥るわけではない優れた植物でみんなむしゃむしゃと食い続けているということだが、何度読んでもその光景は異常だと思う。

日常物

さて、本作がいわば「日常編」だといったのはどういうことなのかといえば、別にそのまんまなのだが。音楽だったり、家庭料理だったり、日々のお仕事風景だったりといった「THE・日常」に潜り込んでいく話が多い。なんだ、そんなのつまらないよと思うかもしれないが、客人は豪華にもてなすという常識がある為になかなか「一般家庭の料理」に辿りつけなかったり余所者がやってくることの少ない地域にとっては「余所者の居ない日常」に接することがひどく困難だったりする。それだけに日常の料理に辿り着いただけで達成感があるから不思議だ。本人たちは毎日当たり前に食べているのに。

あとはソマリアの首都付近でジャーナリストが狙われ、命を落とすことが5年で11人もいるという「恐ろしい日常」もある。当然重傷者まで含めるともっと多い。なぜジャーナリストが狙われるのかといえば、真っ先に思いつく政府批判による政府の報復などではない。反政府組織であるところのアル・シャバーブ側が政府の支配する首都で問題を起こして治安悪化を内外に印象づけたく、政治家を殺すのはセキュリティ面でなかなか難しいが、ジャーナリストは簡単だ、ということらしい。ジャーナリストの暗殺は話題になる。

さらに「南部ソマリアの日常」に話がうつるとどんどんきなくさくなってくる。「南部ソマリア」ではジャーナリストは毎月標的になり、高野秀行さんの知人まで何度も命の危機に晒されているぐらいである。南部ソマリアは本当に危険なようで立ち入りが厳しく制限されているのだが、今回は「政府軍の大部隊と一緒になら」という条件付きで可能になる。ところがこれがまあ予定通りの時間には動かないわ、目的地はどんどん変更になるわ、銃撃に巻き込まれ命の危機に巻き込まれるわで大変な目にあっていく。

覚悟の有無

高野秀行さんはめっぽう危ない目に会っている人間だけれども、この時が一番死に近づいたのではないだろうか。それぐらい本気の銃撃戦、死んでも何一つおかしくない本物の戦場に放り出されることになる。もちろん戦場カメラマンなどはそういう場面に出くわす覚悟をしていくだろうが、高野秀行さんはいうてもただのエンタメノンフィクションライターであるからしてそんな覚悟があろうはずもない。金を払って同行させてもらっているお客様気分だ。しかしそんな気分などは銃声一つで簡単に打ち砕かれてしまうものである。

恐ろしい話だが、銃撃戦に巻き込まれるという事態に際して現地人ジャーナリストにある「覚悟」と日本のエンタメノンフィクションライターの「覚悟」の差が浮き彫りになるところが面白い。高野秀行さんと現地人ジャーナリスト達は知事と軍隊と行動を共にしていたのだが、知事は臆病でなかなか行動を起こさなかったばかりか実際に銃撃戦が始まったらビビってろくに戦おうともしなかった。実際にはその行動の遅さが彼らを救ったとも言えるのだが、現地人ジャーナリストは怒っている。

「タカノ、あなたは自分で敵を倒す準備はできていた?」
「敵を倒す?」
「そうよ。アミソムがやられたら、自分たちで戦うしかないじゃない。あたしは銃をとる覚悟をしてたわよ」
「ハムディ、銃を撃ったことあるの?」
「ない。でも撃つ。やらなきゃやられるのよ」
「…………」
言葉が出なかった。戦闘に遭遇することも想定していなかった上に、自分が銃をとるなど考えもしなかった。報道者は中立を守るべしといった建前論は無関係に、私は部外者として自分を安全地帯に置いていた。生きるか死ぬかという状況に置かれても、その脳天気な気持ちのままだった。

常日頃から銃を取る必要性、その可能性を考えさせられる立場と、そうしたことをまったく考えなくても日々を過ごせる立場。人間の覚悟の差となるには、充分すぎるぐらいの違いだろう。しかし時として日常と戦場が交錯するときに、その覚悟の有無が大きな差となって人間の運命を決めるのかもしれない。結果的に「平穏な日常」としてのソマリアと、「不穏な戦場」としてのソマリアを描くことになった、コンパクトにまとまった良い一冊だった。

恋するソマリア

恋するソマリア