基本読書

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時を駆ける/書ける/欠ける/賭ける少女『リライト』『リビジョン』『リアクト』『リライブ』 by 法条遥

入り組んだ物語だ。きっと『リライブ』まで読み終えて何もかもがすっきりとわかった! と喝采をあげる人間はそうはいないだろう。僕も一度読んだ後再読をして、時系列の並びと因果のもつれを紙を使って大きく図解してそれを参照しながら読み進めることでようやく全体像にぐっと近づいたぐらいだ。もっともそれはそうしなければ読めないというたぐいのものではなく、よりよく理解して楽しむ為の行為の一つなのだけれども。そして、この物語はちゃんとその労力に見合った過程と結末を用意してくれている。

シリーズの前提と簡単なあらすじ

さて、本題に入る前に本シリーズの前提条件を確認しておこう。本シリーズは『リライト』『リビジョン』『リアクト』『リライブ』から成る、「時と四季を巡る物語」とでも総括すべき作品である。第一作目である『リライト』は最初Jコレクションとして世に出た。その時点ではシリーズ構想も何も明かされていなかったが突如として『リビジョン』と同時に文庫化が始まって、『リアクト』そして『リライブ』がある程度の間隔をおいて発刊されていった。第一作目の『リライト』はつまるところ、読者の側からしても「シリーズ物である」とは知らずに読んだわけだ。

ゆえに、リライトにおいては当然物語はそれ単体として、独立的に面白い物になっている。2300年代の未来からとある古い小説の一端をみかけて、それがどうしても読みたくて1992年にやってきたという素っ頓狂な理由でタイム・トラベルしてきた少年・保彦。いってしまえばタイムトラベラーな彼と、未来においてその体験を小説に仕立て上げる小説家との、一夏の出会いの物語。物語が動き出すのは、保彦が去ってしまった後。本来起こるはずだった「未来」がこない。同時に過去が書き換えられてゆくタイム・パラドックスへと発展していく──。『SF史上最悪のパラドックス』との惹句通りに、物語は思いもつかない展開へと収束していく。

タイムトラベル物にも幾つかの種類があり、過去を改変することで分岐した世界ができるものもあれば、過去を改変することで未来も変更されてしまう一本道連動型のものもある。ドラえもんとかターミネーターみたいな感じ。一本道連動型の中でも大きなタイムパラドクス(自分の親を殺したら自分が生まれないことになってしまうから矛盾が生じる)に対応する方法で無数に枝分かれしていくわけだが、本シリーズもこの分野に属する。

より複雑化し、アップデートされた『時をかける少女』

あらすじだけで、過去に読んだことがある人ならああ、と思ったかもしれないが、本シリーズは『時をかける少女』を意識した作品だ。しかし明確に現代版としてアップデートされているのはその複雑さ。イケメンな男の子がちゃちな理由で過去にやってきて女の子と恋に落ちる──そこまでは確かに、時をかける少女。しかしその背後には「一人の視点」からだけでは決して見えてこない大規模な思惑と、そして時間軸的には何百年何千年といったタイムスケールで展開している因果のもつれが関わっている。

そこは難しさの肝でもある。「起こっている事象」を幾人もの視点と、そして過去や未来を行きつ戻りつしながら語り、さらに「現在」が過去改変と未来からの介入者によって徹底的に不安定に揺れ動きつづけるのだから複雑にならないはずがない。そこに加えてさらなる複雑さを提供してくるのが「メタ・フィクション性」だ。最初の長編『リライト』は後に続く作品内で「存在している作品」として扱われることになる。

我々読者からすればそれはもちろんフィクションなのだが、『リビジョン』以降の人々は『リライト』を小説として出版された作品と扱いながらも、その実「自分たちの実態権が小説化されている」ことに気が付き、事態の真相に近づいていく。こうして『『リライト』』は視点を変え、立場を変え、何度も何度も作中で時には批評にさらされ、時には物語を再演するかのように演じ直され、重奏的にリフレインしていく。

その複雑さは面白いのか

ただ、複雑な構造、しっちゃかめっちゃかな時間軸にすれば面白くなるのかといえばそうではない。意味の分からない作品として敬遠される危険性をはらんでしまう。だが──、四季をめぐってゆく作品構造、前作が次作の物語のきっかけとなる、メタフィクションの階層性がそのまま物語駆動の原動力となる「メタフィクションであることの必然性」、そしてまさに時を巡る作品であること、すべてがこの作品を美しい構造と情景として描き出していく。

また見事にその因果の複雑性の中に、特殊な能力を得てしまった人々と、時のねじれに気がついてしまった人々の葛藤を編みこんでいる。時間の複雑さの中でこんがらがって、翻弄されていく彼ら彼女らの認識はそのまま我々読者の物でもあるのだろう。所詮主観的な人間の一生である。どこが書き換えられて、大きな世界の中でどこで何が起こっているのかなんてわかるはずがない。ただ目の前の事がなんとなく把握できるだけのこと。

それでもしっちゃかめっちゃかな状況の中で、自分たちの理解できるように物事を整理し、時間と空間そのものに挑んでいくような彼女らの苦闘はそのまま、こんがらがった因果の糸を一つ一つ丁寧に解きほぐしていく過程と繋がっている。

時を駆ける/書ける/欠ける/賭ける少女達

『リライト』を読むと、そこには『時をかける少女』を複雑にし、現代版にアップデートした「複雑さを増した現代版タイム・トラベル青春物語」がある。次作『リビジョン』では、家系的に未来視ができる能力を持った女性が、その能力故につらい未来を知らされてしまい、タイムパラドクスに陥るハメになったとしてもその未来を変えようと苦闘する姿が描かれる。先に説明した通り本作は「『あったこと』は『なかったこと』にできない」一本線の時間軸物だ。未来を強引に変更しようとすればそこにはそれ相応の代償が求められる。それでも彼女はその道を選ぶのだ。

第三作目である『リアクト』は、『リライト』を演じ直し、そして新たな『リライト』を創りあげるための物語。第四作へ向けた伏線が張り巡らされこの世界が何故これほどまでに因果の絡まりが複雑になってしまったかの一端も明かされる。「時を書ける/賭ける少女」達の苦闘だ。彼女たちは「『あったこと』は『なかったこと』にできない」ことをよく知っている。だからこそ、『あったこと』はそのままに、物語を『リライト』の上から『リアクト』してみせる。そして第四作目、シリーズ最終作である『リライブ』では未来からやってきた保彦の義理の妹として、これまで死んでも転生してしまうことで、何百年何千年と生き続けてきてしまった能力を持つ小霧の、つらく苦しい人生とこの物語が始まるにいたったそもそもの「きっかけ」が描かれていくことになる。

少女たち(一部少女じゃない人達もいるが)はみな保彦を中心として恋人/母/姉/妹とそれぞれの関係性を持っている。また自分たちが持っている能力や才能によって、否が応でも「時間と空間」という変更不可能な「現実そのもの」と苦闘することになる。『リライト』がそれ単体で読めば現代版によりアップデートされ、複雑な意匠をこらされた『時をかける少女』としても読めると書いたが、その後の作品についてもすべてハードなSF、そして同時に青春物語としても一級の作品として読めることだろう。そのどれもがこの物語の複雑な因果の一端を解き明かすパズルのピースでもある。

季節が一巡するように、ドリルが回転するかのように、『リライト』から始まった物語は『リライブ』で巡ってみせる。それは回転ではあるものの、時の変化を滲ませる、美しい完全生のようなものがある。もつれにもつれた因果がついに解きほぐされた開放感、保彦を中心として語られてきた少女達の思いが浄化されていくような心地よさはシリーズ最終感にふさわしい。面倒くさい物語だ。でもここには、それに付き合うだけの情景がある。

リライト (ハヤカワ文庫JA)

リライト (ハヤカワ文庫JA)

リビジョン (ハヤカワ文庫JA)

リビジョン (ハヤカワ文庫JA)

リアクト (ハヤカワ文庫JA)

リアクト (ハヤカワ文庫JA)

リライブ (ハヤカワ文庫JA)

リライブ (ハヤカワ文庫JA)

一部の人に刺さるかもしれない惹句

さて、付け足しのような形になってしまうが、最終作『リライブ』にはあとがきがついている。■本音 と称して、本作には要素の参照(とは書いていないけれども)として北村薫先生の『スキップ』『ターン』『リセット』の<時と人>三部作、そして森博嗣先生の<四季>シリーズの二シリーズを挙げている。『つまり、<時と人>を、<四季>で展開する、<時と四季>の物語を書きたいと思いました。』僕もどちらもこうして思い返しているだけで涙が出てくるぐらい大好きな作品だ。

たしかに、時に対してそれぞれの能力を持った少女たちの苦闘、それぞれの立ち向かい方は<時と人>シリーズを彷彿とさせる。そして<四季>はもちろんこの作品の巡ってゆく季節と時間の構造を表しているし、<四季シリーズ>で特に印象的な「矛盾」というフレーズがこの<時と四季>シリーズでも重要な要素となってリフレインしていく(これはまあ意味的にはタイムパラドクスのことだからあまり関係がないけれども)。

しかしこの<時と四季>シリーズは明確に二シリーズの香りを引き継ぎながらも、まったく新しくオリジナルな法条遥の作品として成立している。だからまあ、こうした情報をきっかけに読み始める人でも、背景情報として楽しんで、めいいっぱいこのシリーズの中で迷えばよい。