- 作者: ウィリアム・ギブスン,浅倉久志
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 1987/05
- メディア: 文庫
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『ガーンズバック連続体』や、表題作でもある『クローム襲撃』、スプロール物の第一作である『記憶屋ジョニィ』など有名作が目白押しで現代のSFに当たり前に存在している要素に繋がる部分も多い。一作一作紹介していってもいいのだが──、やめておこう。「わかりにくい」「読みづらい」と言われることの多いギブスンだが、筋だけを丁寧におってみると以外なほどシンプルだ。しかし時系列が行ったり来たりし、その世界に当たり前に存在しているルール、技術をろくに説明してくれなかったり(そうした確実に存在している世界のルールを説明せず当たり前に書くことが「繋がりを感じさせない、どこか別の世界を丸々構築している」感覚に繋がっているのだとも思うが)「イメージそのものを伝えようとしているかのような部分」があったりという部分がそのシンプルさを覆い隠し別個のものにしてしまっているというのが個人的印象である。
たとえば冬のマーケットという短編は外骨格を着込んだ女性と、思考の自由さを体現しているかのような「ゴミの山から他人が芸術と呼ぶ何かをつくりだす先生」と、マニュアルを読むだけで、そいつと遊びたわむれたりしないと揶揄されるマニュアル人間のケイシーの三すくみの関係性を描いていく。筋としては外骨格の女性がプログラム的な存在へと移行してしまったことを受けて、関わりのあったケイシーが「なぜそんなことになってしまったのか」を先生と振り返りながら語るというただそれだけの話だ。そこにリフレインするゴミの山のイメージ、外骨格に包まれて自分を押し込めて、思考の自由さを謳いながら身体からの解放を望む一方そのことに恐怖を抱いてもいる身体喪失のイメージ、情報体になったとして、そこに統合された意識はあるのか──という問いかけなど様々なモチーフ、テーマが織り込まれていく。
わかりにくさはそのものずばりで説明せずにやけに詩情たっぷりに表現することもあるかな。たとえば冒頭の文章、外骨格の女性がプログラム的な存在になったことを『彼女がネットに融けこみ、永遠の彼方にクロスオーバーしたこと』などと書いていて思わず「永遠の彼方にクロスオーバーってなんだよ! 意味がわからねえ! ちゃんとどうなったのか具体的に書けよ!」とツッコミを入れてしまった。でもそれはあくまでもその結末が本当に「誰にもわからないから」という理屈に則った表現なのだろう。電脳的な存在になった彼女は、本当に身体を持っていた時の彼女と同一存在といえるのか? それはこの時点では誰にもわからない、だからこそ「こうだ」という断定的な口調では語られ得ない。
冬のマーケットはほんの一例で、十篇はどれも違った感情と感覚を想起させる。『ドッグファイト』は戦闘機を操るゲームを自分に好意を持った女の子を裏切ってまで勝ちにいって全てを喪う話とあらすじは簡単ながらも意識をスローモーショーンにさせ強引に戦闘シーンを描ききる描写の凄まじい話。『ガーンズバック連続体』はカメラマンの主人公が「ありえたかもしれない未来」へとするっと入り込んでいってしまう、あまりSFとも言えないような作品ながらも短編という枠の中で視点の転換をグッと展開してくれる力技の作品だ。
そんなある日、ボリーナスの郊外で、ミンの好戦建築の中でもとりわけ贅沢なものを撮ろうと支度しているとき、ぼくは薄い膜を突き破ってしまった。蓋然性という膜を──
このうえなくゆるやかに、ぼくは”一線”を超え──
見上げた時眼に入ったのは、十二発の脹れたブーメランのような代物で、全体が翼をなし、轟々と巨象のような優美さで東に向かっていく。あまりに低空なため、そいつの鈍い銀色の表面の、リヴェットの数すらかぞえられそうなうえ──たぶん──ジャズの残響まで聞こえた。
このするっと感が良い。特にうさぎを追いかけて行って穴に落ちたわけでも何でもなく、ただ「超えてしまった」のだと。この『ガーンズバック連続体』の中で描かれていく「失われた未来」の在り方は言葉にしがたい郷愁を思わせる。こうして一通り読んでいくと、やはり僕にとってウィリアム・ギブスンという作家は感覚としてしか捉えられない、言葉にしがたい作家なのだろうなと実感してしまう。作品について言葉にするたびに嘘になっていってしまうような気がする。