基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

友だちはいらない。 by 押井守

友だちはいらない。(TV Bros.新書) (TOKYO NEWS MOOK 481号)

友だちはいらない。(TV Bros.新書) (TOKYO NEWS MOOK 481号)

ぱらっとめくってみて「げ、聞き書きかよお」と思ってしまったけどめっぽう面白い。インタビュアーが押井さんと付き合いの長い人で、ざっくばらんに「顔の見える」会話をしてくれているからというのはあるだろうな。ただ、テーマ的に奇しくも、押井守さんも『スカイ・クロラ』を監督した縁のある森博嗣さんの『孤独の価値』と著しく似通っているのが惜しくはあるんだけど。出版時期もそれほど離れていないし。テーマに限って言えば『孤独の価値』の方がより充実しているので、そっちを薦めておくが、本書はまあ押井本だから、テーマがどうとかで読む人もあんまりいないかな。huyukiitoichi.hatenadiary.jp
僕個人の考えとしては孤独と友だち観については上記の記事と『天才を生んだ孤独な少年期』の中でほとんど語ってしまっているから、あまり新しい引き出しも特にない。huyukiitoichi.hatenadiary.jp

押井 もっと言うと、友だちはいいというふうに決め付けているのが、僕には理解できない。その決め付けがあるから、友だちがいない自分はおかしいんじゃないか、人間性に欠陥があるんじゃないかと悩み、世間だって、友だちのいないあいつはヤバイだとか、悪人かもしれない、なんて色眼鏡で見るようになる。

本の内容はまあ引用部からも明らかなように、「そもそもなんで友だちがいることが良いことだなんて思っているわけ?」「いないのが普通で、いないからといって悩む必要なんか一切ないんだよ」という話になる。じゃあずっと一人でいろってことかあ? と思うかもしれないが、ここが押井さんの主張の特徴的な部分で、人生で必要なものを語っている。

師匠、家族、仕事仲間

押井 人生において必要なのは、自分を導いてくれる目上の人、師匠やマスターと呼ばれるような存在と、奥さんのように、自分はバカだということをいつも思い出させてくれる肉親や家族、そして一緒に何かを作ってくれる仕事仲間。もうひとつは、孤独にならないための小さきもの、つまり動物だよね。師匠、家族、仕事仲間、そしてイヌネコさえいれば人生、何の問題もないです。

この「じゃあ必要なのは?」という答えは、僕の考えとほぼ同じだ。「一緒に何かを作ってくれる仕事仲間」って友だちじゃね? と思うかもしれないけど、これはようは「同じ目的地へ向かう船に載っているか、いないのか」っていう違いなんだろうなと思った。仕事仲間は仕事、たとえば押井さんだったら「映画をつくる」でも「本をつくる」でもいいけど、とにかく同じ目的地へと向かってオールを漕いでいる相手のことだろう。友だちはそういう利害関係がないからこそ意味があるものだ(いらないなんて言わずに、別に多少友だちがいたっていいのに)と思うが「ひたすら過去を懐かしむような後ろ向きな間柄」のことを特に強調していっているのかなとも思う。たとえば高校時代の友人であろうとも現実社会について論じたり映画について会話を熱心にするなら押井さんの中では、それは仕事仲間になってしまうんじゃなかろうか。

まあそのへんの細かいことはどうでもいいんだけど。うんうんと頷いたのは『イヌネコさえいれば』という部分で、これも個人的な体験が大きいからどれだけ広く適応でいるのかわからないけど、少なくとも僕は犬が子供の頃いてくれてほんとに救われた部分がある。友だちがいないのはずっと本を読んでたから孤独だとも寂しいとも思うことはなかったけど、とにかく学校に行くのがツラくてそれ以上に親との関係がツラかった。鬱一歩手前みたいな状態で、今思えば人生が一番ツライ時期だったけどあの日々をなんとかやり過ごせたのも犬がいたからだろう。

犬っていうのは基本的に全肯定してくれるものなんだよね。良いとか悪いとか、調子の波とかがなくて、常に変わらず肯定を与えてくれる存在なのだ。猫はそういう意味では全肯定は与えてくれないかもしれないけど、常に変わらずにそこにいて、同じ接し方をしてくれる、というのがやはり大きいように思う。それはある意味では自分を現実に繋ぎ止めてくれるアンカーのようなものでもある。帰るべき場所というか。押井さんはこのコトについては、「人間はパーフェクトではなく、何かが欠けている」から、生き物と接することで何かを補完しているのではないかと表現している

読書について

あともう一つ面白かったのが、読書について語っているところ。本というからにはそこには書いた人がいて、僕はその書いた人間に常にツッコミを入れ、それはどうなの? と疑問を挟んだり、「すげえ!」と喝采をあげながら読んでいるから、あんまり一人でいるような気がしない。それは小説でも、この本のようなノンフィクションでも同じ。書いた人が死んでいるか生きているかも関係がない。

この本も、いちいち細かく取り上げないだけで「それはどうなの」という部分は幾つもある。たとえば押井さんは「孤独はよくない」会話がどんな内容であれ仕事仲間との会話があれば孤独を噛みしめるより絶対いいというが、このあたりは意味がわからない。会話の内容はともかく会話があるのがいいんだとかいったら、それ仕事仲間ってかただの友だちとなんにもかわらんじゃん。何事かを成す時に「仕事仲間」が必要なのには同意するが、孤独を紛らわすために会話をするぐらいなら孤独でいたほうがよほどマシだと思う。

知性について

と、こんなふうに僕は僕の頭のなかに作り上げた架空の押井守さんに意見を申しながら読んでいるわけだ。一方、こっちは逆に「そうだよな〜」と思いながら読んだ部分。

押井 ものを考えるということがちゃんと分かっている人でなければ本を読む意味はない。逆に、ものを考える能力を身につけるには依然として本を読むしかない

「本を読む意味はない」のがなぜかっていうと、それは結局「本には嘘が書いてある」からなのだろう。筆者の立ち位置、思想から必然的に出てくる偏向もあるし、あるいは単純に間違いもある。読む意味がまるでないバカみたいな本も多い。たとえば上で僕があげた「ここはおかしいんじゃないの」という部分も、何か正解があるわけではない。でもだからといって盲目的に書いてあることを全部正しいと読んでいいわけでもない。もちろんまるっきりクズな本だと当てはまらないが、ある意見を「正しくない」と思いながら読むのはそれ自体価値のあることだ。なぜなら差し出された1の情報に対して、応答側はその裏をみたり、角度を変えてみることによって1を2にも3にも増幅させることができるから。

この「本を読む力」、「情報の取捨選択」みたいなのは、僕は現実に対するマッピング能力だと思っている。たとえば、現実はただ現実としてそこにある。「目の前にティッシュボックスがあります」ぐらいなら、殆どの人が現実から言葉にする過程であまり情報を欠かすことなく伝達可能だ。しかし社会を論じたり、関係性を論じたり、「ヒットするコンテンツとは」といった現実が現実としてそのまま示しづらい話をしていくと、その言質は少なからず現実から乖離していくことになる。それは言葉で創りあげられた、架空の現実の見取り図だから。現実をうまく言葉に移し替えることのできる人は、たとえていうならば道案内のうまい人のようなものだろう。でもそれができる人はすごく少ない。

言葉にする前段階で誰しも頭の中に「現実とはこういうものだ」という見取り図を持っている。世界を神が創ったという見取り図を持っている人もいれば、世界はビッグバンで出来たという見取り図を持っている人もいる。科学は現実に対して正確な見取り図を提供するためのツールである。現実に対する不正確な見取り図を頭のなかに持っている人は、現実でも正しく目的地にたどり着くことは出来ない。たとえば、「努力すれば絶対に成功する」という誤った見取り図を持っている人は自分のしている努力が適正なものかどうかの観点が抜けてしまうかもしれない。これは極端な例だけど。

「誰にも動かせない厳然たる現実」というものがこの世にはあって、誰もその総体を知ることはできない。たまに洞察力の鋭い人がエッセイを書いたり、研究者が今まで誰も知らなかった法則を明らかにすることで、誰も知らなかった現実の法則が少しずつ明らかになっていく。だが、その法則の「正しさ」はどう判定され得るのか? 自分がよく知らない現実のルールを取り入れるのが本を読むことだとしたら、自分がよく知らない世界の法則の正当性を、読者はどのようにして判定すればいいのか? 

ようは、「総体」を知ることはできないけど、どこが欠けているのかという線引がある程度正確できてはじめて新しい知識の正誤判定を可能にさせる。既存の知識からの推測というか。いってみれば知性とはなにか、という話なのかもしれない。そしてその正確な現実に対する見取り図をある程度構築する為に、単純に本をたくさん読めばそれでいいかというと、そうとは言い切れないだろうと話はつながっていくけれども、本の内容からどんどん乖離していくのでこれぐらいにしておこう。

本書はそこそこってとこかな。最初に言ったように同テーマなら『孤独の価値』を推すが、長々と語ってきたように面白い部分もちょこちょこある。押井ファンは買うだろうが、まあ各自判断されたし。