基本読書

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24人のビリー・ミリガン〔新版〕 by ダニエル・キイス

ダニエル・キイスといえば有名作の『アルジャーノンに花束を』と本書『24人のビリー・ミリガン』を思い浮かべる人が多いのではないか。

24人のビリー・ミリガン〔新版〕上 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

24人のビリー・ミリガン〔新版〕上 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

24人のビリー・ミリガン〔新版〕 下 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

24人のビリー・ミリガン〔新版〕 下 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

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アルジャーノンが小説なのでこの本も小説と思い込んでいるケースがあるようだが、本書はノンフィクションである。連続レイプ犯として逮捕されながらも、警察や弁護士などが対応を行っていくうちに本人にはまったく記憶がなく、意味不明な応答を繰り返す精神障害者であることが明らかになる。それだけならまだしも彼の中には複数の人格が存在していることがわかってきて、問題は事件がどうとかよりも彼はどのような精神構造をしているのか、本当に多重人格なんてものは存在するのか、彼を罪に問うことはできるのかが焦点となっていく。

面白いのはこの多重人格があまりにも劇的で、信じられないような内実を伴っていることだろう。24人の異なる人格を頭のなかに飼っているなどといわれても、まず意味がわからない。そのうちの理性的で主導権を握っている(ある程度意図的に人格の切り替えをコントロールできる)人格が、時間が細切れになっていることに気がついて「論理的に時間の空白を埋めていく」過程で自分以外に人格が無数に存在することに気がつく描写など、それが現実に起こったことだといわれてもにわかには信じがたい内容だ。人格毎に年齢も、性別から性的指向、宗教からIQまで千差万別で、切り替われば立ち振舞まで変化するとくれば「ふうん、面白い小説だね。作者は誰なの?」と言いたくもなる。

特にこの『24人のビリー・ミリガン』の場合は、ただの多重人格者のレポではなく「重度の犯罪を犯した」多重人格者のレポである。抑えの効かない危うい人格がビリー・ミリガンの中には幾人も巣食っており、彼の中の理性的な人格はそれをなんとかして押さえつけようとする。ジキル博士とハイド氏のように自分の中に存在する抑えきれない両軸で物語を駆動していくのは一つの王道的展開ともいえるだろうが、現実でまさに同様の──現実は小説より奇なりを採用するならば現実よりも複雑に展開していくのだからそれで面白く無いはずがない。

実際、多重人格物はフィクションにも幅広く題材として応用されていっていることもあるし、人間の想像力と興味を大いに引き立てる魅力に満ちているのは特徴といえる。フィクションといえば帯をみて驚いたのが、レオナルド・ディカプリオ主演で映画化が決まったとか。今更内容的には特に興味をひかれないけれど、24の人格をディカプリオがどう演じ分けるのかには興味がある。本書が出版されてから多重人格だと申告する人が大幅に増加したともいうが、まあとにかくCTスキャン一発撮って審議判定なんてことが出来ないから騙りやすい病気でもある。

だからこそともいえるが、とにかく多重人格は「そんなものがあるわけがない」という否定にもさらされてきた。正直な話、僕もその実在については数々の精神科医が「ある」と判断していることから「あるんだろう」と仮定しているにすぎない。ビリー・ミリガンも一日中観察を受けたはじめての多重人格者であり、その生涯の真実性については4名の精神科医と1名の心理学者によって宣誓証言されている。ちなみに本書では新版ということで、精神科医で解離性同一症(多重人格の正式名称)の患者を85例前後治療してきたという町沢静夫さんが解説をよせている。

形式についての話

ビリー・ミリガンは最初、完全にバラバラな23の人格として存在しているが、あるときこの人格がまじりあった新しい個人が出現する。統合されたミリガンは、すべての人格と行動、関係、悲劇的な経験や喜劇的な冒険について、鮮明でほぼ完璧な記憶を持っていたという。だからこそダニエル・キイスは彼から話を聞くことで、ミリガンの過去の出来事や心に秘めた感情や心のなかの会話を詳細に記録することが出来た。その記録から、神の視点のようにして脳内人格同士の会話などを詳細に書き込んでいる為、ほとんど三人称小説のように読める。実をいうとこの点が個人的にとても引っかかるので、うーん、なんだろう、あんまり楽しくは読めない本だったりする。

僕は何もノンフィクションが事実をそのままに反映させている・いるべきだと思っているわけではない(何を書き、何を書かないのかで情報を編集することはそれだけで物事をフィクションとして成立させてしまう)。それにしたって統合されたミリガンの話をきいて、それをまるで見てきたかのように(非常に長い会話もある。どうやってそんな会話を記憶しているんだ? )小説的に書かれると、そこに何らかの客観性があるのかと随分と考えこんでしまう。「本当にビリー・ミリガンは多重人格なのか」とかそんな最初の部分で疑っているわけではないのだが、その時感じたことや、やりとりは明らかにあとから作り上げたものだろうと。

個人的に、こういう時に担保して欲しいのは「彼はこれこれこう言っていた」と言っていたことをそのまま書いてくれることだ。著者の考えと完全に分離されていること。その認識や発言がどれだけ「本当にあったこと」に沿っているのかなんて本人にさえわからないだろうが、少なくとも「彼がそう言っていた」というのは事実と読者側で判断できる。その過程をすっ飛ばして三人称形式にされてしまうと「どこからどこまでが補っている部分で、どこからどこまでは彼が発言したことなのか」がさっぱりわからない。

もちろんある程度の部分はよくニュース番組などがやる「再現VTR」みたいな感じで、事実っぽいつくりものとして愉しめばいいんだろう。多くのフィクションに転用されていることから、これ一冊読んでおくことで多重人格物の「前提知識」を抑えるのにも役に立つ。実際にそういう愉しみ方をしているわけだが、どうしてもフィクション性とノンフィクション性が混合しているとのめり込むことができなくなってしまう。

すべてがビリー・ミリガンの過去の話のわけでもないし、序文で「わたしが勝手に作り上げた部分は一つもない」と予防線を張っているけど、そんなのは読者側で判断できないんだよね。本当にこの何十、何百ページにも及ぶ会話をビリー・ミリガンがそのまま一言一句正確に語ったのか? だとしてもそんなに大量の、それも何十年にも及ぶ過去の記憶を彼がどの程度正確に語っているかの判定はどう行なうのか? といろいろ気になってしまう。故に、せめて判断基準の一つとして三人称形式で再構成するのをやめてほしかったという話。

ビリー・ミリガンは2014年の12月に癌の為59歳で亡くなっている。彼は結局のところ最初のレイプ事件に関しては無罪となったが、その後も安泰な人生とはいかなかった。記事を読む限りでは、晩年もあまり幸せなものではなかったようだ。幾つか死亡告知記事を読んで回ったが、死ぬ間際まで多重人格が統合されなかったのかどうかはよくわからなかった。結局、2014年はダニエル・キイスとビリー・ミリガンの両名が亡くなってしまった年になったわけだ。www.latimes.com