基本読書

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忘れられた巨人 by カズオ・イシグロ

なんとも不可解な小説──というのが、一読したあと「なんだったんだろう? もう一回読むか」と読み返している時に湧いて出た感想である。それは単純に「わかりにくい小説」を意味するわけではない。むしろ展開としてはストレートで、もちろん物語のラストなどいくつかの点で解釈が分かれることはあれど、起こっていることだけを見ればシンプルな物語といえる。扱われる道具立て、世界観的にはど真ん中ストレートなファンタジと捉える向きもあろうが、後述するいくつかの理由で幻想小説と個人的には(特に意味は無いが)カテゴライズしたい作品だ。

忘れられた巨人

忘れられた巨人

カズオ・イシグロといえば、これまでのイメージは近現代を時代背景として、扱う題材こそ滅法異なるもののそこには常に哀愁漂う過去の情景が展開されているように思う。失われたあの日々、変容していく記憶。それは決して単純な過去の美化とはまた違って、確かに美しくはあるんだけれども、同時に影のある在りし日の風景、あり得たかもしれない光景だったのかもしれないと思わせる……なんていうかな、「非常にしっくりくる」情景なんだよね。だからこそこの物語が、これまでの傾向から大きくハズレて5〜6世紀頃のイギリス、それもアーサー王伝説が取り込まれ、鬼や妖怪じみた化け物、挙句の果てには竜まで当たり前に存在するファンタジックな世界観を主軸に据えたことに多少の*1驚きがあった。

ただその驚きも、読み始めるとすぐに瓦解する。書名が『忘れられた巨人』とあるように、重要なのは「忘却」だ。忘れること、忘れられること、過去にあったことへの記憶がおぼろげになり、同時に変容していくことがファンタジックな世界観でこれまでのカズオ・イシグロ作品の総決算のようにしっくりと展開していく。ああ、世界観が変わろうとも、扱う時代が変わろうともこれは明確にカズオ・イシグロ作品であり、同時にまったく新しい境地でもあるな、いったいなにがはじまるんだろう──と読んでいて嬉しく、わくわくしてきてしまう。

簡単なあらすじ

物語は老夫婦からはじまる。村でそれなりに平和に暮らしている老夫婦だが、なぜか夜は蝋燭を使うことを村の人間から禁じられているなど、何かおかしなことが起こっている。しかし誰もその理由を語らないし、そもそもその理由を覚えていない(老夫婦さえも)。そんな虐げられた状況であることも手伝って老夫婦は昔に別れた息子がいる村へ行こうと相談するが、断続的に思い出したように勃発するものの話し合いは前に進むことがない。村人は老夫婦を含めてみな忘却の渦に沈み込んでおり、ほんの一日前のことをすっかり忘れて──忘れたことさえ忘れてしまっている有様だ。

そうはいってもその忘却にも個人差があるようだ。たとえば、この老夫婦は他の村人よりはしっかりと物事を記憶している。それもあってか、老夫婦はなんとか息子に会いにいくことを決心し、忘却に落ちることもなく息子を探しに旅に出ることに成功する。ただし、息子がいることは覚えていても、その息子との間にどのようなことがあったのか、どんな息子だったのか、曖昧模糊として思い出すことが出来ない。おじいさんは自身の過去もろくに思い出すことも出来ないが、道中、かつての自分を知っていた相手と出会うことによって、次第に過去の自分を断片的に思い出してゆく。道中出会う人間も多彩で、何らかの密命を帯びている凄腕の戦士、事情があって村を出ざるを得なくなった少年、アーサー王の命を受けて竜殺しの任務を帯びているガウェインと単純な旅は大きなパーティを伴って意外な方向へと動き出してゆく。

これはあれかな、ドラゴンクエストかな?

不可解な小説

不可解な小説と書いたのは、まずをもってこの忘却の世界観に由来している。何しろ、みな過去をすっかり忘れてしまっているのである。どのような基準においても仲の良いおしどり老夫婦であるアクセルとベアトリスも時には喧嘩をするが、次の瞬間には喧嘩をしていたことも忘れて元の仲の良い夫婦に戻っている。道を見張っている戦士に出逢えば、なんで俺がここで見張っているのか思い出せないといった事態に陥るし、大きな問題(村の子供が何者かにさらわれる)が起こっても、日が変わるとすっかり村人はみなそのことを忘れてしまっている。

数ページ前で語り合っていた内容を、数ページ後の彼らが覚えていない。ただし当然読者は彼らが語り合い、多少喧嘩したりした場合はそれを覚えているわけだから、「いったい、何が起こっているんだろう、この世界は」と訝しむ気持ちが強くなっていく。なぜ、こんな忘却が起こってしまっているのかというのは当然、不可解だ。しかしそれ以上に、この物語はいったいどこへ向かっているのかというのが不可解である。果たして老夫婦は、息子のいる元へたどり着けるのだろうか──それ以前に、本当に息子は存在しているのだろうか? 竜の討伐を目的としているガウェインがいるが、しかしそもそも、この世界に本当に竜なんているのだろうか? 何もかもが忘れられてしまうこの世界で、確かなものはいったいなんなんだろうか?

忘却が進む世界を彷徨いながら、まるで霧の中を進むように「この物語は、どこかで根底からひっくり返るのではないか」とうかがいながら読み進めることになった。物語内で起こったことが直後にキャンセルされるという、「積み上がらなさ」は物語の構築の仕方としてはひどく特異だ。必然としてその「積み上がらなさ」は物語から排除される方向へと自走しはじめるが、しかし同時に忘れることの利点も前景化してくる。忘れることによって、夫婦の間にあった小さなわだかまりはいったんリセットされる。争いを繰り返す民族は争いを忘れ、過去にあった嫌なことも、消え去っていく。もちろん、楽しかった思い出も一緒にではあるし、夫婦は自分たちの絆にはそれなりの自身を持っている。だからこそ、失われた記憶を再度獲得することを望むが、しかしそこには常に忘れてしまったことさえ忘れてしまった「掘り出されるべきではない何か」まで思い出してしまうことへの恐怖がある。

本書は道具立てだけみれば竜殺しの物語、J.R.Rトールキンが構築した世界観とそう離れていない場所にいるように思えるが、その描き方は随分と異なっていく。竜も、鬼や怪物共も確かに「いる」ように書かれているのだが、忘却のテーマと語りと演出の淡白さが合わさってその存在感はひどく希薄だ。カズオ・イシグロらしからぬ迫力の戦闘シーンや、物語的には大いに盛り上がるはずのクライマックスシーンなど、幾らでも派手になりそうな場面はあるのに、語りは常に距離をとって、そうした熱狂から遠くはなれている。だがその分いっそう、神話と歴史が織り交ぜになった世界観と、それを彩る老夫婦等キャラクタの心情が明確に浮かび上がってくる。

霧のように、ぼんやりとした小説だ。それでも老夫婦は忘却を携えて前へと進んでいく。忘れながら前へと進んでいくこの感覚が実に新鮮な驚きを伴っていて、竜や鬼の存在を描きながらどこか薄ぼんやりとした、幻想的な情景を想起させる。「ぼんやりとした小説」なんてものが、本書を読むまで成立するだなんて思ってもみなかった。僕は本書を読みながらしきりと「痕跡すら残せず、忘れられてしまったものはこの世界からなかったことになってしまうのだろうか」と考えさせられたものだ。読み進めるうちに、そこにはやはりぼんやりとした自分なりの答えが与えられることになる。カズオ・イシグロがまた凄まじいところへボールを放ってきたなあと思わせる、静謐な一冊だ。

*1:まあ、そもそも『わたしたちが孤児だったころ』が犯罪小説の手法を借り、『わたしを離さないで』がサイエンス・フィクションの世界観を使ったように自覚的に挑戦を取り入れてきた作家であるから、そこまで不思議ではなかったことはあるのだが。