基本読書

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タイム・シップ〔新版〕 by スティーヴン・バクスター

もともと上下巻で発刊されていたものを今回一巻本に。そのおかげもあって700ページの大著になってしまわれたけれども、どうなんでしょう。僕としては1000ページ超えとかでない限りは、一巻にまとまっていた方が嬉しいけれども、じっくり時間をかけて読むと薄い方がありがたいって感じかな。本書はもともとはH・G・ウェルズの『タイム・マシン』刊行百周年を記念して書かれた、遺族公認の「正統的なタイム・マシンの続編」という名目の上──バクスターによって放たれた「爆弾」と表現するのがふさわしい、タイム・マシン・トラベル・歴史改変小説だ。

タイム・シップ〔新版〕 (ハヤカワ文庫SF)

タイム・シップ〔新版〕 (ハヤカワ文庫SF)

解説で著者の言葉に触れている。『歴史の改変をあつかったSFは、たいてい視野がかぎられている。それで、時間旅行というテーマそのものに取り組んでみたいと思ったんだ。』まあ、たしかにそうかもしれない。歴史改変、タイム・トラベル物語は、ウェルズ以降たくさん書かれてきた。そのどれもがウェルズが発見した水源──根源的なアイディアがまだ掘り起こしていないあらゆる可能性を掘り尽くすように発展・展開・拡散してきた。それでも案外そのアイディアでどこまで出来るのかといえば、直近100年前後ぐらいの過去・未来をちょこちょこ改変するだけでドラマにしたりなど──限定的になっているものも多い。

スティーヴン・バクスターは「時間旅行というテーマそのものに取り組んでみたい」という言葉そのままに、時間が移動できるんだったら、これぐらいはできる、これぐらいは起こるってことだろ? だったら、俺は、それを書くとでもいうように破壊的な傑作を仕立てあげてみせた。まさに彼の気持ちを表しているような作中の台詞で、こんなものがある。『「でもあなたは、まだ旅の終わりまで行っていないわ。究極の改変とはどんなものかしら。天地創造のときまでさかのぼって、そこからすべてをつくりなおすことができるのかしら。どこまでこういうことは──改変は、可能なのかしら」』

「わたしはDCW──時間改変戦指導委員会の戦略策定担当者とよく話しあったけど、いつも連中の考えの小ささにがっかりさせられていたわ。あの戦いの流れを修正すればとか、この人物を暗殺しておけばとか……。時間改変乗り物という強力な道具があって、歴史がこんなふうに変えられるのだとわかっているのに、どうしてそんなちっぽけな目標にこだわるのか。こんなふうに何百万年も時を遡れるというのに。どうしてわずか数十年前のビスマルクやドイツ皇帝の少年時代をいじろうとするのか。いまやわたしたちの子孫は、五千万年かけて世界をつくりかえることができるのよ。人類そのものをつくりかえることだってできる──そうでしょう?」

何百万年も時をさかのぼり、あるいは未来にいけるというアイディアをウェルズが提供したのに、「なぜ、行かない?」とバクスターが突きつけてくるかのようだ。『究極の改変とはどんなものかしら。』このぶち上げ方、両端をそれぞれ別のロケットにくくりつけられた風呂敷がものすごい加速で南北に射出されていくような興奮がある。途方も無い大風呂敷を広げながらも、その風呂敷の内側と緻密としか言いようがない密度の描写で埋めていく様は「爆弾」と呼ぶにふさわしい。

簡単なあらすじ

ウェルズの『タイム・マシン』の続編といったが、作中で『タイム・マシン』の話はあらかたネタバレされるので別に読まなくても問題ない。タイムマシンで主人公は紀元802701年の未来世界にいってそこでウィーナという未来人の女性と親交を深めたが彼女を守り切ることができず、現代に戻ってきてしまった──ぐらいは把握しておくと入りやすいかもしれない。つまるところ、本書の物語はそこからはじまる。タイムマシンを動かし、もう一度紀元802701年の未来世界にいってウィーナを救出するのだ。

だが今回の時間航行では主人公が前に行った「未来世界」とはその姿を大きく変えてしまう。今では当たり前となった感もあるが、彼が時間航行を既に行っていることで「世界が分岐し」、未来はまったく別の形をとるようになってしまったのだ。かつての未来はエロイ族とモーロック族に人類が分岐し、エロイ族がモーロック族に狩られ、喰われているといった陰惨な世界観だった。それが今度の未来世界ではモーロック族が技術的に大きな進化を遂げ、地球の3億倍に近い「球殻」に住み形状を記憶し食べ物も椅子も机も何もかも床から出現する絶対的ユートピアのような状況で暮らしている。この未来世界では資源は殆ど使い切れないほどあるから、国境戦争も起こらなければ食料をめぐっての争いも起こらない。神もいないから、信仰上の争いも起こらない。

多様な世界をめぐる旅

バクスターが徹底しているのは、こうした世界をエネルギー・土地といった資源からどのような人間生息環境がありえるかを考え、政治形態・社会の有り様にまでその理屈を展開していくところにある。重力はどのように発生しているのか、資源が溢れ働かなくとも食べ物も遊び道具もいくらでも生成される状況になったら人間はどのような政治形態を考えるのか。逆に人類がいないほどの過去にいけば、その時代の地理から気候まで「地球がどのような状態なのか」を克明に記載してみせる。

 この暁新世においては、ブリテン島はすでに島のかたちをなしているが、十九世紀の姿にくらべると北西側の海抜がかなり高くなっている。アイリッシュ海はまだなく、つまりブリテン島とアイルランド島はつながっている。逆にイングランド南東部は海に没しており(略)

またこれが典型的な説明口調というか、バクスター以外がやると「ここはお前の設定置き場じゃねえんだぞ」と言いたくなるような分量で展開されていくのだが、不思議とそれが気にならない。それどころか彼が構築するさまざまな未来も、過去も、ディストピアじみた世界でもたまらなく魅力的でいつまでも読んでいたくなるほどだ。それは単なる設定の集積というよりかは、根底から理屈を一個一個おって説明してくれるせいでその世界が今まさに、レゴかなにかのようにしてかちゃかちゃと積み上がっていく様がまるで小説のように読めるからではないかと思う。

究極の改変をめぐる旅

一度いった未来がその姿をまったく変えて球殻で平和に暮らす謎種族をみてしまった為に、「なんてこった、時間を移動しているだけで、歴史をどんどん改変し、もとあった世界を破壊しているんじゃ」と絶望した時間航行者は、今度は自分がタイムマシンをつくるのを阻止する為に過去へと赴くのだが──という展開で彼は何度も時間航行を繰り返していく。20世の戦争が繰り広げられる(時間航行者からすれば)近未来にいったかと思えば、タイムマシンの暴走で5000万年前の世界に辿り着き、今度は5000万年前から歴史が改変された人類史をたどり直した19世紀へ──とまさに縦横無尽にタイム・トラベルを企て、歴史を無数に分岐させていく。

60万年以上の未来では資源は溢れ争いはない、一方20世紀では人類は放射線兵器によって破滅的な戦争を繰り広げている、5000万年前に取り残された人類は、僅かな個体数で繁殖を行なうために男女一人ずつという夫婦の形式を辞めることを選択する。人間の行動、考えは、自由に行われるわけではない。人類を取り巻く状況があってはじめて、人類の行動や倫理、思考の枠、政治形態等が決定されるのだという風に、技術の進化によって人間の行動・構築する社会がいかにして変化しうるのかを時間航行毎に構築してみせるのは読みどころの一つだ。

物語の風呂敷は、物語の後半に至ってなお、加速度的に広がり続けていく。しかしこの探求の旅に「終わり」はあるのだろうか? というのは、こうした風呂敷を広げるだけ広げるタイプの物語で常に心配になることのひとつだ。歴史の改変につぐ改変、その度に立ち現れるまったく違った地球と、人類の姿、文化。この探求の旅に終わりなんか訪れるのか──といえば、バクスターはおそらくは最初からその事を考えて、タイム・マシンを本作の枠として決定していたのだろう。完璧に、落とし所を決めてみせる。これがタイム・マシンの続編だからこそ可能な落とし所であるし、そうでなければこの物語はどうしたって「俺達の冒険はこれからだ」エンドにしかならない。

 時間航行はその本質において歴史を混乱させる。そしてそれによって、ここではないべつの世界を発生させる──ないしは発見するものだ。となれば時間航行家の使命とはすなわち、探すことにある。”最終世界”がみつかるまで探し続けなくてはならない──あるいはそれを、つくりあげなくてはならないということだ!

『どこまでも高く昇ろうと昇揚する魂と、その足かせとなる動物的な卑しさ*1』を抱えているのが人間だ。個々人だけではものごとの流れにたいした影響を与えられない。かといって、人間一人一人の行動はちっぽけだが、無意味ではない。歴史を縦横無尽に移動しながらこの物語が語りかけてくるのはそうした「小さな変化が与える、大きな変動」という、時代のうねりそのものだ。

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