基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

S,M,L,XL+: 現代都市をめぐるエッセイ by レム・コールハース

普段、線をぐりぐりと引きながら本を読む。あとで引用しようと思うぐっときた部分に、結論部分に、問題提起の部分に。概ねあとから読み返した時に、そこを起点として他の細部をずるずると思い出せるように引いている。というわけで、本書もいつもと同じように愛用のボールペンを片手に読み始めた。冒頭の畳み掛けるような問いかけから思っても見なかった都市観を提示され線を引き始めてみれば、これがいつまでたっても線が引き終わらない。

S,M,L,XL+: 現代都市をめぐるエッセイ (ちくま学芸文庫)

S,M,L,XL+: 現代都市をめぐるエッセイ (ちくま学芸文庫)

中心の束縛、アイデンティティの拘束から解放された、今のニーズを追求し古いものを捨て去る現代的な都市を「ジェネリック・シティ」と名づけた章から本書ははじまる。時に冗長で混沌としながらも力強くリズミカルな文体は、まるで頭の中の都市概念を一旦解体し、言葉によって再構築してみせるかのようだ。1ページ線を引き続けて、2ページ目も引き続けて、4ページになっても引き続けて「このままじゃあ、本が真っ黒になってしまうぞ」と思いながら線を引き続けるはめになる、圧倒的な冒頭。

1 はじめに 1-1 現代都市は現代の空港と同じで、どれも似たり寄ったりだろうか? この集積を理論的に解明することは可能だろうか? 可能だとして、それはどんな形を目指しているのだろう? 集積はアイデンティティを剥ぐという形で可能となる。ふつうそれは損失とみなされる。だが、これほどの規模で起こっている現象である以上、そこにはなにか意味があるはずだ。アイデンティティのデメリットとは何か? 逆に何もないことのメリットとは? 一見偶然に見える──そして、ふつう残念に思われる──均質化の同時多発が、実は差異を離れて類似化へと向かうよう意図された行程ないし意識的な運動だったとしたら? 「打倒、個性!」──そんな全地球規模の解放運動をわれわれは目にしているのだとしたら? アイデンティティが削がれた後に残るのは? ジェネリックなもの?

基本的な説明

本書『S,M,L,XL+』は建築家であり都市計画家でもある著者レム・コールハースが書いた、原書にして写真や図版がふんだんに盛り込まれた1370ページを超える『S M L XL:』の、現代都市に関わるエッセイ部分を翻訳しまとめたものである。原書刊行が1995年で、その後に発表された現代都市に関わるエッセイも収録していることもあって、まさに原書に+を付け足した邦訳版といえる。しかも著者の希望もあって最初から文庫での登場だ。

1995年に刊行された原書からして日本でも話題になっていたものらしく、事前の注目度も一部では高かった。僕がそれを知ったのもつい最近のこと。ふーん、そんな話題になった本が翻訳で出るんだ。1300ページなどと言われたらためらってしまう。しかし300ページ程度のエッセイなら読みやすそうだ、と単なる興味本位で手にとったのだが、これ程までに面白いとは思わなかった。

構成的に本書は3つに分かれていて、まず都市計画や現代都市についての問題提起をまとめた章。ストーリーと題された、日記風エッセイのように気楽に読めるものが納められた章。最後にロンドン、ベルリン、アトランタ、東京などの各都市への観察エッセイのような都市と題された章とそれぞれ洞察の鋭さはそのままに読み味とテンションが異なる内容で楽しませてくれる。

都市計画

そうはいってもやはり、怒涛の勢いで語りを尽くしていく問題提起部分の凄まじさを皆様には体験してもらいたい。たとえば都市計画について語った章など、文章が全力疾走し駆け抜けていくかのようだ。

 もし「新しい都市計画」があるとすれば、それは秩序と万能性という双子の幻想に依拠するのではなく、不確実性を舞台に上げることである。そこで大事になるのは、ほぼ恒久的な物体をどう配置するかではなく、潜在的可能性をもつ領域にどう水を引くかだ。それが目指すのは安定した形ではなく、一定の形に固まるのを拒むようなプロセスが宿り得る、肥沃な田畑を耕すことだ。重要なのはきっちりした規定や規制をすることではなく、思考を広げ、限界を否定することだ。ものごとを分類してラベル付けすることではなく、名状しがたい混成物を発見することだ。心血を注ぐ対象は都市ではなく、無限の強化と多様化、近道、再分配を可能にするインフラ基盤を操作すること、つまり心理的空間をつくり直すことだ。

都市を計画するとはいっても結局のところ都市性は制御することはできないのであり、われわれは今までとは違う都市の概念を1001通り想像してみなくてはならず、『近代化はわれわれを最高にハイにするドラッグにならねばならない』とまで文章はドライブしていく。
どこかで区切るということが不可能なこの文章群。サッカーのようにパス(過程)をつなげていってゴール(結論)があるのではなく、問題提起であり同時に結論でもあるパスをつなげていった先にさらに巨大な結論が立ち現れてくるような異常さがある。
文章上に意味的な重複が多かったり、誇張表現が多いことから「あまり大したことを言っていないのでは?」と初読時は思ったが、ちゃんと読めばこれが深い洞察と綿密な下調べの上で書かれたことがわかるだろう。

ビッグネス

一方「ビッグネス、または大きいことの問題」と題された章では、建築があるスケールを超えて、ビッグという性質を獲得した時に何が起こるかを語る。エレベータ、電気設備、新しいインフラ基盤の力を得て拡大を続けていく建築物・都市を前にして建築家にはビッグネスについての理論がなく、『ビッグな間違いをすることだけが、ビッグネスと関わりを持つ唯一の方法なのだ。』という時代の話だ。

 純粋性ではなく混濁、質ではなく量を通して、ビッグネスだけが、機能的なものどうしのあいだに生まれた真に新しい関係を支え、アイデンティティを限定するのでなく拡大していくのを助けることができる。ビッグネスの人工性と複合性によって、機能は自分の身を守る鎧から解き放たれ、一種の流動化を起こす。プログラムとなる諸要素が反応しあい新たな出来事をつくり出す──ビッグネスはプログラムの錬金術のモデルに立ち戻る。

制御しきれない量が存在しているからこそ、ビッグネスは予測不可能性を内包し、それによって都市と競合するようになる。その後に続く、『ビッグネスは、まさにまわりの状況から自立しているために、いまやグローバルな状況となった白紙状態においてもサバイバルできるし、白紙状態を利用すらできる唯一の建築である。』という指摘は、(唯一かどうかはともかくとして)今なお有効であろう

まとめ

おもしろかった。あまりに文章に繰り返しと誇張表現が多く「おいおい、とんだペテン師なんじゃないか」と思わせる人間は多いがこの作品は内実も伴っている、はずだ。はずだというのは僕はこの分野には何ら詳しくないのでたぶん、きっと、そうだろうという程度なのだが。逆に建築の専門の人達からは、どういう評価なのだろうな。気になるところではあるが、とにかくまあ、今年読んだノンフィクションの中でもっとも興奮した一冊であることは間違いがない。