基本読書

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歌おう、感電するほどの喜びを!〔新版〕 by レイ・ブラッドベリ

本書『歌おう、感電するほどの喜びを!』は新版となってかつて文庫で二分冊されていたものの合本版になる。『タイム・シップ』が上下にわかれいたのを合本版にしたように、出来る限り一冊で売りたい要望があるのは確かだろう。しかしこの本については文庫になる前は『キリマンジャロ・マシーン』という書名の単行本で、本来は一冊として出ていた事情がある。元々は一冊となって出ていた作品が二分冊され、今度は表題が変わって(たぶん原題に沿った)再度合本されたわけでなかなか数奇な運命をたどっている本だといえるだろう。ちなみに文庫に収録されていた解説は二つとも収録されている。

歌おう、感電するほどの喜びを!〔新版〕 (ハヤカワ文庫 SF フ 16-8)

歌おう、感電するほどの喜びを!〔新版〕 (ハヤカワ文庫 SF フ 16-8)

  • 作者: レイ・ブラッドベリ,伊藤典夫,宮脇孝雄,村上博基,吉田誠一
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2015/06/08
  • メディア: 文庫
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出来不出来こそあれど時と場所、設定を縦横無尽に変化させながらも情動に訴えかけてくるセンシティブな言葉はまったく変わらない。感動したとき、不安が募っていく時、言葉にしてしまえば簡単なそうした精神の変動を本当の意味で表現するのはどのような方法であれ難しい。なのにレイ・ブラッドベリは常にピタッと当てはまる言葉を運んでくる。あまりにもピタッと当てはまるので、短編の内容がどうとか以前にその表現に感動してしまう。そうした細やかな言葉の選択に重要なのは、言葉の技術だけではなくどのような状況・世界観を設定するのか──ということからはじまっていて、ブラッドベリの場合は情動の表現それ自体の為に世界が逆算して作られていくような感覚がある。

明日の子ども

『明日の子供』という短編は子供が生まれてきたら小さな青いピラミッド形だった──という意味不明な始まり方をするが、物語の本質は「決定的に他者と異なってしまっている子どもを両親は愛することができるのか」にある。別の次元に生まれたものだから、本当はちゃんとした赤ちゃんなのだが周りの人間にはピラミッド形にしか見えないその赤ん坊と両親の間は通常存在し得る、あらゆる断絶以上の距離がある。何しろ次元が超えているのだから。父親である男は、なんてこった、こんなことがあっていいのかと大いに戸惑うが、母親はその事実を告げられてもちっともうろたえることはない──『「だって、そんなにひどい赤ん坊じゃなかったもの。あの子のことがよくわかったら、そう思うはずよ。それにあの子を──腕に抱くことだってできるわ。体は温かいし、泣き声もたてるし、三角形のおしめだって必要よ」』

こういう時は母親の方が強いというのはありがちな表現(そしてたぶん事実)だろうが、あまりにも大きすぎる次元の壁を殆ど気にもかけないその強さは特別なものを感じさせる。次第に父親もこの特殊な赤ん坊に馴染んでいき、色の変化によってその時の体調、気分などがわかるようになっていくと親子を隔てるものは次元が違えどほとんど感じられなくなる──。最終的に両親は子供に寄り添うのか、世界の側に残るのかの大きな選択を迫られる。奇想そのものでありながらも根底に流れるのは子供のことを思う親の愛情なので実にウェットな仕上がりだ。

キリマンジャロ・マシーン

状況設定からして「勝ってる」短編といえばもともとの表題作である『キリマンジャロ・マシーン』。俗に言うタイム・トラベル技術によって状況やキリマンジャロという短編名からして(キリマンジャロの雪というヘミングウェイの作品がある)、ヘミングウェイと思われるハンターを、不幸な結末=ショットガンで頭をふっ飛ばして自殺する から過去へ送り戻し救おうとする物語だ。タイム・トラベル技術について深く触れられるわけでもなく、延々とヘミングウェイ(と思われる)男と良い死に方とはなんなのかと話を続けていく。『「いや」と、わたしは言った。「墓にも、ふさわしい墓と、ふさわしからぬ墓とがあるんですよ。死期に、ふさわしい時と、そうでない時とがあるのと同じように」』

言葉の一つ一つがレイ・ブラッドベリからヘミングウェイへのファン・レターのようだ。貴方はあんな終わり方を迎えるべきではなかったし、変えられるものなら変えるべきなのだと。ある意味究極の「願望充足方小説」でそれを感傷的に描いているだけのつまらない短編と捉えることもできるだろうが、まあとにかく気持ちは入っている、ぐっと。特にタイム・マシンに対して「こういったものには、どんな燃料を使うんですか」と一見したところSF的な問を受けた男が思案する内容が、一ミリもSF感がないかわりに、情動にステータスを全振りしているような文章で素晴らしい。

 わたしはこう言ってやることもできたはずだ──深夜の読書、明け方にまで及ぶ幾晩もの読書、雪山での読書、パンプロナでの真昼の読書、小川のほとりでの読書、フロリダ海岸でのボートのなかでの読書、そういったものを詰めこんであるのだ、と。あるいは、こう言ってやることもできたはずだ──われわれみんなでこの機械を見つけ出したのだ、みんなでこの機械を検討し、買い求め、手を触れ、われわれの愛情と、二十年あるいは二十五年あるいは三十年前に彼の言葉から受けた感銘を、この機械に注ぎ込んだのだと、と。ここには生命と思い出と愛情が詰め込まれているのだ。それがガソリンであり燃料なのだ──パリの雨、マドリードの太陽、アルプスの雪、チロルの硝煙、メキシコ湾流のきらめき、爆弾の炸裂、飛び魚の乱舞、それがこの機械のガソリンであり燃料なのだ。わたしはそう言ってやるべきだった。そう思ったが、口に出さなかった。

ファン・レターというかここまでくるともうラブ・レターだ。

歌おう、感電するほどの喜びを!

対してこちらは表題作。原題 i sing the body electric! で元ネタはウォルト・ホイットマンの詩になる。それにしたってこの訳はスゴイ。短編の内容もそれに輪をかけてテンションが高いが、物語としては地味で「世話役としてのロボットおばあさんをめぐる子どもたち」の話。母親に早くに死なれ、そうした家族向けへの世話やきおばあさんロボットが家族の元にやってくるところから物語は始まる。なかなかこのおばあさんに慣れることのできない子ども達だったが、何しろおばあさんはロボットだからいくらでも子ども達に手間をかけられるし、愛情を注ぐことが出来る。常に愛情をもって接し、世話をやいてくれ、行動まで含めて実に人間的なおばあさんを、拒否し続けることは出来ない。

ロボットであること、それは人間には与えられ得ない無限の愛情、無限の記憶を持ちえるということだ。歌おう、感電するほどの喜びを! という限界突破した情動の表現は、子どもたちがこの幼き日に出会った超越的な愛の庇護者を心のなかに抱き、遥かな時間を超えて頼りにし続けることの喜びそのものだ。

おわりに

さまざまな感情の動きを自由に再生できる装置のような短篇集だ。それはまあ、レイ・ブラッドベリの短篇集すべてにいえることかもしれないが。レイ・ブラッドベリの方向で比する短編SF作家が今後出てくるものだろうか……とふと思ったが、でもケン・リュウとかは近いところにいるような気がするな。ブラッドベリほど極端ではないけれども。

紙の動物園 (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

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