基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

紙の動物園 by ケン・リュウ

本書『紙の動物園』は中国生まれ、その後アメリカに移住しマイクロソフトに入社しハーヴァードのロースクールにいって卒業後弁護士へ。今はアプリ開発やらコンサルタント業をやりながら小説も書けば翻訳もするというマルチな才能の持ち主ケン・リュウによる日本オリジナルの初短篇集だ。英語で作品を書いているのだがまだ本国では翻訳作品がないのだという。しかし何があったらそんな人生をおくることになるんだ。そのうち自伝とか書いて欲しい。短編セレクション及び翻訳は古沢嘉通さん。翻訳は理屈と情動の揺れ幅を見事に表現しているさすがの出来。

実はこうして『紙の動物園』として出る前から、話題作だった。SFマガジンで表題作「紙の動物園」が翻訳された時から異常な盛り上がりをみせ、本書発刊前に立て続けに同じくSFマガジンに載った短編の出来がどちらも飛び抜けてよかったこともあって、(受賞歴や既に国際的な評価を受けていることもプラスし)出る前から注目を集め、事前評価も高まっていた。かくゆう僕も早く読みたい早く読みたい絶対傑作だ間違いないと待ち望んでいた作品である。

紙の動物園 (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

紙の動物園 (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

出てみれば、まあもともとの刷り部数が極端に少ないとはいえ(勿論部数を知っているわけではない)何度も版を重ね、感想も目にしない日がない、ような気がする。それもほぼ絶賛の嵐で、個人的に知っているがSFとはほとんど縁のない書店員の方なども「いま、紙の動物園が熱いらしい」と言っているのを目にするなど、普段あまりSFを読まない人にまで届いているようだ。実際シンプルで洗練され、突き抜けて面白い短編揃いで、バラエティも豊かという「最高かよ」以外の感想が出てこない質に仕上がっている。不死技術、シンギュラリティ、宇宙船がガッツリ出てくる純SF的な作品もあれば、「もののあはれ」という捉えるのが難しい独特な概念を小説内で展開してみせたり、妖狐の出てくるアジアンファンタジーな作品など、ジャンル横断的に読める作品集だ。

僕はグレッグ・イーガンやテッド・チャンといった今第一線で人気の(テッド・チャンは作品書かなすぎだけど)海外SF作家は評価が固まった後に読み始めたので、はじめての作品が出た時、それをまっさらな状態で読んだ人達がどう感じたのかわからないのだが、それはこのケン・リュウを読んだ時と同じような感じだったのではないかと今は勝手に想像している。それぐらい、この作品自体が傑作だがこの先にはもっと凄いものをみせてくれるはずだと「先への期待を煽る」作品になっている。実際著者初の長編『The Grace of Kings』が今年の4月に出たばかりで、今最初の100ページぐらいを読んだところだけどこっちも震え上がるほど面白い。

15篇全部に触れるわけではないにせよ幾つか特徴的な作品をピックアップしながら紹介していこう。

情動的な短編

たとえば表題作でもあり、冒頭からガツンとやられる「紙の動物園」。感情を突き動かすことにパラメータを振りきったような短編だ。アメリカ人の男性にカタログから選ばれた、英語もろくに喋れない中国人の女性。当然その息子は混血となり、アメリカ人コミュニティで生きる際にさまざまな労苦を背負うことになる。母国の文化から引き剥がされ、周囲からは異端児、異人として扱われる。すっかりアメリカナイズされた息子はそんな状況の原因となった母を恨み、父親もそもそも中国人の嫁を連れてきたことが間違いだと悟り、母親は自身の文化と周囲の環境との軋轢の中に沈み込んでいく。境遇からいってもケン・リュウの思いが強く込められているかのようだ。

 ときどき、家に変えると、母さんが小柄な体で台所をせわしなく動きまわり、中国語の歌を口ずさんでいるのを見かけることがあった。あんな女性が自分を生んだとは信じがたかった。ぼくらはなにひとつ共有しているものがなかった。母さんは月からきた人間みたいなものだった。ぼくはいつも自分の部屋に急いで入った。そこにいけば、どこまでもアメリカ的な幸せを追求しつづけることができた。

それでも母親は息を吹き込むと、折り紙に命を吹き込むことが出来る特別な力を持っていた。折られることで動き出す虎、鮫、水牛。息子も子供の頃はそうした紙の動物たちを不思議とも思わず自然と受け入れていたが、現実は非情である。その力を利用して一躍人気者になってみんなが受け入れてハッピーエンド──なんてことにはならない。あくまでも母親は息子への愛を抱きつつも受け入れられない葛藤を抱え続け、息子は文化資本の異なる母親から心理的に離れていく。命を持った折り紙が動き出す高揚感と、そんな魔法を目の当たりにしながらも文化的な差異と周囲の状況が息子を母親から引き剥がす相克が美しい、親子の物語だ。*1

純SFっぽい短編

「紙の動物園」は間口の広い作品だが、あまりSFっぽくはない。というわけで逆に純SFっぽい話を紹介してみると「円弧」と「波」や「どこかまったく別な場所でトナカイの大群が」あたりはシンギュラリティ以後を扱った作品で人間は当たり前のように不死となり体を捨て去ってと変質を重ねていく。これは中国文化圏にそれなりの期間浸かった作家特有のものかもしれないが、「紙の動物園」も、今名前を上げた3作も、どれも親子関係が主題として立ち上ってくるのが興味深い。親に反発するのであれ、親への愛情を示すのであれ、そこには強い執着と相互理解を求める指向性が物語を大きく突き動かして行く。

たとえば「円弧」は子供を捨てた母親が、不死化技術を今まさに得つつある世界で、若かりし頃の姿のまま生活をおくっているとおっさんになった息子と再会を果たし──と展開する物語。次第に老いてゆく息子と、老いることなく生き続ける母親、そして新たに生まれ最初からアンチエイジング処置を施された歳の離れた娘──三者三様の考え方を持って「死」にどう相対するのかが描かれていく。現実世界において「別れ」とは、どうしようもないものとして現れる。交通事故、自殺、老衰、癌、さまざまな死因があるが、最終的には誰にも等しく訪れる現象だ。だからこそ人は人の死を悼む。

それじゃあ死が選択可能になった世界では、どうなのだろう? 別れは納得のもと行われるのだろうか? そう綺麗にはおさまらない。「死が生に意味を与えるのは神話だわ」と一人が語る。「もしそれが神話なら、それはわたしが信じている神話なの」と一人は答える。不死化技術があるからこそ、長年の時を経て再会し、また別れ、変化していく家族の愛を描いた作品としても一級の作品だ。『わたしは息子がわたしを必要としなくなってずいぶん経ってから彼を愛することを学んだ。そのため、彼へのわたしの愛は、はるかに純粋で、なおかつ、砂浜で陽に晒されて脆くなった骨のように不確かなものに感じられた。』

アジア文化的な短編

「紙の動物園」が折り紙を作品に盛り込んできているように、いくつかの短編はもろに漢字や「もののあはれ」な概念などアジアな要素を投入して作品に仕立て上げている。それを特徴として1篇あげると「もののあはれ」はこんな書き出しから始まる。『この世界は漢字の「傘」の字に似た形をしている。ただし、ぼくが手書きをする、ひどくへたで、どこもかしこもバランスを崩している文字に似ている。』「この世界って何?」と思うがすぐにネタが明かされる。この語り手は太陽光を巨大な帆で受ける宇宙船の中におり、この世界とは宇宙船のことなのだ。

巨大な小惑星が地球へと衝突し、ごくごく限られた人間だけがこの宇宙船によって全滅を免れることが出来た。物語はこの宇宙船にいる語り手の現在の苦境=太陽帆が何らかの理由によって破れ、早く直しにいかなければ死ぬしかない。しかし太陽帆は大きすぎて、直しにいくには何日もかかる──と地球を脱する前の家族の物語(また家族だ!)が交互に語られていく。で、この語り手が大翔という名の日本人なんだよね。父親は終わりかけの地球で幾つもの日本的な感性を息子に愉してみせいく。芭蕉の句「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」*2や、まさにこの短編の題名になっているもののあはれについて。

 「万物は流転するんだ、大翔」父さんは言った。「おまえの心が感じたその気持は──”もののあはれ”というものだ。命あるあらゆるものが儚いという感覚だ。太陽もタンポポも蝉も<鉄槌>も、われわれみんなも。われわれはみなジェイムズ・クラーク・マクスウェルの方程式に支配されており、継続時間が一秒であろうと十億年であろうとみな最終的には消えていく運命にある一時的なパターンなのだよ」

もののあはれの概念を胸に秘めた大翔は、太陽帆が破れ最後の人類が全滅寸前という最悪の事態に、自身の名前が示すごとく「翔けて」太陽帆を修復にいく。日本人の価値観を大げさに描きすぎじゃろなど思うところもあるけれど(元がTHE FUTURE IS JAPANESEという日本企画ものだからね)シンプルで映像的に映えながら、文化的な要素が色濃く反映された名短編だ。

ファンタジックな短編

最後にファンタジックな短編として「良い狩りを」。この作品の何が良いかって、割りとお行儀がよくコンパクトで洗練された短編を立て続けに読んできたら最後に、ケン・リュウの個性というか、「ええ、そんなことになるう?? 普通??」という異常性が存分に発揮されている短編がこの「良い狩りを」なのだ。いや、変といえば変な作品は多いのだが、よくまとまって、洗練されているところまでは他短編と同様なのだが、神業的なドリフトをキメてみせる。

物語の舞台は妖狐が普通に存在する世界。主人公の父親は十三代前の祖先劉義将軍が鍛えた、何百人もの道士の祈りがこめられた剣を使って妖狐を斬る職業的妖怪バスターである。主人公はまだまだ見習い妖怪バスターで、本当に父親みたいな立派な妖怪バスターになれるんかいな……と落ち込んでいるところを美少女妖狐と出会ってすっかりめろめろにされてしまう。美少女妖狐と話すうちに妖狐の文化を知るが、科学技術がますます盛んになってこの世界からは古い魔法が消えていき──。妖狐は変身能力を失ってただの美少女へ、妖怪バスターは失業で二人は自分たちのかつて当たり前にあった世界とは別の世界で生き延びることをしいられるのだ。

「あたしは金属とアスファルトでできたこのジャングルで狩りをすることを夢に見ている」彼女は言った。
「真の姿になって、梁から横桟へ、テラスから屋根へ飛び移るのを夢に見ている。やがて、この島のてっぺんにたどり着き、あたしをわがものにできると信じている男たち全員の面前で吠えてやるんだ」

この「金属とアスファルトでできたこのジャングルで狩りをすることを夢に見ている」っていう宣言がぐっとくる。技師となった元妖怪バスター見習いと、ただの美女になってしまった元妖狐の二人の関係、二人の在り方も今後急展開を遂げるのだが、立ち上がりからは想像もつかない、SFとしか言い様がない情景が広がっていく。妖狐への変身というファンタジックな手段が封じられたのならば──とロジカルな、しかし馬鹿げてもいる転換の妙。金属とアスファルトで出来たジャングルと妖狐というミスマッチな要素がごたまぜになって自然と調和し、どこまでも情緒たっぷりに描き上げられていくこの不可思議な作品を読み終えると、グッドハンティング! と叫びたくなってくる。

おわりに

幅の広い作風だからといってそれじゃあそこには統一的なものが何もないのかといえば、ここまでの長々とした説明である程度紹介できているのではないかと期待するのだが、ずっしりと芯の部分で繋がっているものがある。「もののあはれ」の引用部で、もののあはれの概念をマクスウェルの方程式と並列的に語ってみせるように、情緒的な部分と科学的な部分をまったく違和感なく直結してみせるセンス。シンギュラリティ以後の世界を描き、バクテリアが気分や脳内化学に影響をあたえるといった最先端の科学的知見を取り込みながら*3、ケン・リュウは同時にそこで五行説で世界を理解する未開拓な部族を結びつけてみせる。

SFというのは正直いって、誰も彼もに薦められるものではない(反発を呼ぶかもしれないが)。僕の母親なんかはマトリックスがやっていた時に、マトリックス公開日にわーっと観に行こうとした僕に向かって「あんな現実じゃないものの何が楽しいの?」と言い放ったことがある。電車にのって買い物にいくみたいな日常の延長線上にあるわけではなく、想像力を一段階飛躍させる必要があるから、多少のハードルの高さはあるものだ。ケン・リュウの作品群はそうしたハードルを容易く飛び越えてみせる。きっと、このあとに続く作品でもっとジャンル横断的にその才能をふるってくれることだろう。現代ものから武侠もの、ファンタジーなどなどなどなど。

現時点で極みのような作品だが、この先「もっと面白いものを書いてくれるに違いない」と思わせる、底知れないボテンシャルを垣間みせてくれる短篇集だ。

*1:この表題作紙の動物園に関しては電子書籍でまるまる試し読みができるみたいです。

*2:余談だけど、今はニンジャスレイヤーのせいで芭蕉の句という単語をみただけで笑いがこみ上げてくるようになった。

*3:紹介できなかったが心智五行