- 作者: 三宅隆太
- 出版社/メーカー: 新書館
- 発売日: 2015/06/25
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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実作者が書くこうした脚本術の本も多いが結局のところ個人の技量に由来するものであり、ハリウッド映画畑から輸入されてきたような脚本術がまだまだ主流のように思うけれども、日本でもこういう物が書ける人(職業的に脚本の診断を行う人)がいるんだなあというのがまず驚きだった。本書は前半部分を大学で講義を持っていた時の経験や自身の脚本家経験などから導き出した「脚本術」に当て、後半部分を「スクリプトドクター」という一般的にはあまり馴染みのないであろう仕事の説明や、そもそもどうやってそんな仕事をすることになったのか。どんな苦難があるのかについての記述に当てている。
前半部の具体的な指摘も(何度も書いてくどいが、少なくとも僕は)あまり聞いたことがない話も多く、具体的で納得のいくものだ。後半部分については、スクリプトドクターってなんやねんと思っている方もいるかもしれないので簡単に説明しておこう。直訳するところのそのまんま「脚本診断」であり、脚本家が度重なるリライトによって結果的に構造的な欠陥を抱え込んでしまった脚本や、あまりにコミットしすぎてごっちゃごちゃになった頭を外部の目から客観視し、構造的な問題などを指摘し修正案を提示するような仕事である。
スクリプトドクターの話
僕はそれはそのまんまの意味で、「脚本の粗や問題点を指摘するだけなんだろうな〜〜」と思っていたのだが、本書を読むとそのイメージはガラッと変貌してしまう。もちろん上がってきた脚本の問題点を簡潔に提示し、まとめ、解決策を提示するのはその通りなのだが……問題が「脚本」のみに限定されないんだよね。ようは「脚本に問題がある」ということは、「脚本以外の部分に問題がある」ことでもあり、それは脚本家の能力である──とは限らず、創作環境の問題であったり、脚本家個人が抱えている内面の問題だったり、あるいは適性に合わない作業を無理やりやらされていたりする。
時にはプロジェクトのリーダーと脚本家がお互い言葉が足りないばっかりに疑心暗鬼に陥ったり、相手に言いたいことがまったく伝えられていなかったり、ようは「脚本」だけでなく「脚本を生み出すに至る制作環境へのヒアリング」自体が必要になってくるのがスクリプトドクターの仕事なのだ。
どういった敬意でプロジェクトが立ち上がり、なぜその脚本家が担当する事になったのか? プロットはどのように組み立てられ、どの段階で初稿にし、どういった方向性をめざしてリライトをしていったのか、そして、いつどのタイミングでリライトが混迷したのか、などを探ります。
またプロデューサーと対象脚本家とのそもそもの関係性、そしていま現在の関係性は良好なのか否か? 等々も「プロジェクトの進行状況次第では」脚本分析の前に訊いておくべき要素です。
もちろんまだまだスクリプトドクターは一般的な仕事・作業ではないし、三宅隆太さんのやり方が絶対のものでもなんでもない事も確かだが、脚本を取り巻く環境が脚本に影響を与える事実を考えると「スクリプトドクターだからスクリプトしか診ません」はそりゃあ成立しないよなあと思えてくる。本書には実際、三宅さんがスクリプトドクターとして関わってきた幾つかの事例も紹介しているが、「それ、もうスクリプトドクターっていうか脚本家やプロデューサー陣への心理カウンセリングだよね」みたいな領域に含まれるやりとりまであって、「そんなことまでやらないといけないのか〜〜〜」と驚いてしまった。だがそれが、知られざる舞台の裏側みたいで面白いのだ。
脚本の方
話が前後してしまったが、本書の前半部に相当する「実践的脚本術」、こちらはこちらで具体的な指摘の数々なので、長々と要約する必要もないだろうと思う。著者が大学の講師として生徒に向き合ってきた多数のサンプルの元「どのようにしてうまく書けない人を、書けるようにしてきたか」の実例が豊富なので説得力がある。たとえばキャラクターについては「あなたの身の回りで「一緒に過ごしていてもっとも居心地が良かった人」」と「もっとも不愉快に感じた人物」を挙げさせ、その理由を分析させることで、両者はどちらも強く感情が動かされるという意味において「主人公にできる人物」なのだという話など、実に具体的で即・実用可能ではなかろうか。
この後にはこうした性格の仕組みと、それをクライマックスへ向けて設計する方法や、既存の作品を抽象化し自分の作品として取り込む方法などどれもすぐに活用できる事例ばかりである。
「XはYを誘導したり、騙したりするが、それはZを手に入れるためである。やがて、Yは本来持っていた能力を発揮、XとYの関係性は逆転する。XはZを失うか自ら放棄し、Yとの関係性が再構築される」
これはオードリー・ヘップバーンが主演した名作『マイ・フェア・レディ』の中心軌道です。
マイ・フェア・レディはミュージカルだったが(ジャンルとしてはラブ・ストーリーともいえる)、これとほぼ同じ中心軌道としてアクション映画の『にきーた』やホラー映画として『カーペンター』やロマンティック・コメディとして『潮風のいたずら』などが挙げられており、中心軌道が同じでも作品は全く別物に仕立てあげられることが並べ立てられていく。もちろん創作とはそのような基本的な構造なんてものとは無関係になんていうかこうもっと底から溢れてくるもんなんだよ!! と思うのは自由だし、別にそういう考えのもと溢れ出る衝動で書いたって何の問題もないわけだが、利用できるものはこうやっていろいろあるわけである。
おわりに
脚本の話だが、基本は物語構造をいかにして構築するのか・診断するのか・手直しするのかという話なので小説書きだろうが漫画描きだろうが参考にできるだろう。脚本は結局のところ誰かに演じてもらったり描いてもらったりしないと成立しにくいものだし、昨今の小説家になろうやPixivなどの盛況を見るに、個人が趣味として・あるいは小説家志望としてこうした実際的な技術を求める需要も高そうだ。それがたとえ職業的・小説家として成立しなかったとしても、物語をつくることは個人でやっている分にはほとんどお金のかからない上に上達が実感され続ける終わりのない楽しい趣味になりえる。
僕のように別段物語を書くわけでもない、なんか面白いことでも書いてないかなという野次馬根性で読んでも充分楽しめる本だ。初級篇ということなので、中級篇が待たれる。