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映画の「現在」──『映画時評 2012-2014』 by 蓮實重彦

映画時評 2012-2014

映画時評 2012-2014

日記的にだらっと書かせてもらう。批評なるものにほとんど興味がなく、映画も映画館で年に2〜3本見るほかは借りてくることすらもない。文学でも映画でも卓越した成果を残す巨人・蓮實重彦氏のことは名前を知ってるな〜ぐらいの知識しかなかったのだが(だから巨人がどうだと言っているのも適当こいているのである)、なんとなく手にとった本書『映画時評 2012-2014』を読んで唖然としてしまった。まるで生きた映画史が丸ごと殴りつけるように現在の映画を次々と見、批評していく。

褒め上げる時はその当の映画だけでなく、過去の映画作品全てを参照し、その全ての映画に祝福されているようにすら感じるし、逆にけなされる時は映画史から否定されるようにすら感じる。確信を持った言葉の羅列は映画の神かなんかのような説得力に満ちているしこの人がいうならよくわからんが全て正しいのではと思わせる圧迫感に満ちている。

 スティーヴン・スピルバーグは、馬を撮らねばならない。たてがみと尾をなびかせて大地を疾駆する馬を移動キャメラで追わねばならない。艶やかな毛並みの首筋や額の白い斑点に思わず触れずにはいられなくなるような馬に、そっと固定キャメラを向けねばならない。それは、二一世紀中葉のアメリカに生まれた映画作家スピルバーグの背負った歴史的な「宿命」のようなものだ。『続・激突!/カージャック』(一九七四)のシェリフ役にジョン・フォード組でも抜群の騎手だったベン・ジョンソンを彼が起用するのを見たとき、誰もがそう確信したはずである。

そうだったのか、スティーヴン・スピルバーグは、馬を撮らねばならないのか!(簡単に納得する。 逆に批判……というよりかは単なる「事実の確認」といった趣のある文章はこのように展開される。クリストファー・ノーラン監督の『ダークナイト・ライジング』への言葉だ。

 この監督の「演出」が稚拙だというのはそうした意味にほかならず、旧「スパイダーマン」シリーズのサム・ライミ監督の「演出」の精緻さとは比べるべくもない。彼の撮る映画には、シナリオを申し分なく視覚化してみせたという官僚主義的な最低限の達成感しか漂ってはおらず、キューブリックなら失敗作にさえ漲らせていた艶やかな色気が、いっときも「バットマン」三部作の画面を彩ることはない。

もう一冊読み終えたらなんだこの文章はと驚嘆してしまって、蓮實重彦氏の他の著作を買いあさって今読んでいるところだ。で、この全知全能の映画界の神のような尊大な文体と映画史で殴りつけてくるようなスタイルは、80歳を迎えんとする年齢にともなって形成されていったものなのか? というのがひとつの疑問点だったわけだがまだ30代、40代頃の文章を読んでも「いまとほとんど年齢差を感じさせない文体と内容で映画を批評している」ので驚いた。文章だけ読んだらどっちが今の文章で、どちらが過去の文章か判断できないだろう。

映像の詩学 (ちくま学芸文庫)

映像の詩学 (ちくま学芸文庫)

それぐらい無時間的・無空間的に映画/映画史そのものと向き合っているのかもしれない。たとえば──引用ばかりになってしまって申し訳ないが『映像の詩学』ではジョン・フォードに対してこのような凄まじい賛辞が送られている。

 映画はブレッソンにより凶暴となり、ロッセリーニによって繊細となり、ヒチコックによって倫理的となり、小津によって残酷となり、ウェルズによて滑稽となり、ゴダールによって芳醇となったといえようが、そうした思いがけない変容の脂質で映画が人を不断に戸惑わせてきたというのも、まさしくジョン・フォードが、醜さのいっさいをうけいれた上で、美しさのみで映画となる例外的不幸を生きたからにほかならない。

何が何だかわからないが(何一つ観たことがないから)恐ろしい文章だ。「映画は」と映画そのものの歴史を一瞬にして語り終えてしまい、そこにジョン・フォードを位置づけてみせる。その後もまったく同じ調子で何ページも文章が延々と語られ続け、何一つその妥当性のチェックが行えないのだが滅茶苦茶に文章が面白いから読んでしまう。すごいなーこんな人がいるんだなー。

「すげー」と、今の時点で僕に言えるのはそれだけである。