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あなたたちは地球に縛り付けられている──『動きの悪魔』 by ステファン・グラビンスキ

動きの悪魔

動きの悪魔

ポーランド作家の鉄道怪奇譚集という不可思議な題材の短篇集である。怪奇譚集はともかくとして、なぜ題材が鉄道に限定されているのか──? 鉄道オタクしか楽しめない作品なのかもなあ──と多少困惑しながらも読み進めてみれば、この物語群において語られていく汽車とは単なる無機的な、人間をA地点からB地点へと運ぶことを目的としたツールにあらず、鑑賞し楽しむようなフォルムとしての汽車を超越し汽車・鉄道を抽象化した「概念」それ自体となっている。

時には「直線的な動きをもたらすもの」というところまで極度に抽象化され、それはまるで一個の多様な可能性を内包した有機的生命体であるかのように物語を貫いて疾走していく。並々ならぬ情熱が汽車、鉄道へと注ぎ込まれ──現実的に存在する「生身の汽車・鉄道」への興味の如何に関わらずその概念そのものの持つ煌めきに虜にされ、最後まで読み終えてみれば確かにこれは「鉄道怪奇譚集」であったのだと実感させられる。

僕の言っていることがおそらくは5%ぐらいは伝わるのではないかと思われる、特に印象的な場面をまずは一つ印象してみよう。「汚れ男」という短篇の中の年配の車掌の話である。

 ボロンは基本的に乗客というものが我慢ならなかった。彼らの<実用本位>がいらだたしかった。彼にとって鉄道は鉄道のために存在するのであって、旅行者のためではなかった。鉄道の任務とは、人々をある場所から別の場所へと交通目的で運ぶことではなく、運行それ自体と空間に打ち勝つことであった。世の小人どものつまらない商いや、詐欺師の事業努力、商売人のおぞましい入札なんぞ鉄道となんの関係があろう? 駅があるのはそこで降りるためではなく、移動距離を測るためであった。鉄道の停車場は運行の基準であり、それらの一連の変化は、万華鏡の中さながらに、運行の進捗の証拠であった。

どの一行を取り上げても気が狂っていない部分が存在しないような文章であると同時に高らかに祭り上げられた強固で絶対に折れそうもない信念・思想・信条が織り込まれ「こいつ、キチガイだ!」と一瞬でビビッとくるのと同じく「だが、凄いキチガイだぞ!」と喝采をあげたくなるようなそんな名文が各短篇に充実している。ある人間は鉄道を宇宙規模の話で比較して話してみせ、ある人間は「息もつかず停まらずに狂ったように走ること」を鉄道へと求めと単純な「○○機」といった物質的な話ではなく多くの場合それは観念的な形やより拡大された形で話の中では展開していくのだ。

基本的な情報

本書には全部で14短篇収められていて、一部登場人物が共通しているなど関連は見られるもののおおむね各個独立したお話になっている。怪奇譚集といった通り、超常現象が起こるホラー風味の話もあればただの人間が巻き起こす事件を扱ったものもあり、そのどれもに先に引用したような「鉄道・列車への異常な妄執」にとらわれている人間であったり、「動き」そのものにとらわれた男であったりと何かしら鉄道・列車や駅が関連する話が続いてゆく。

恋愛あり、ホラーあり、幻想的な話ありと鉄道を主題とする以外の部分はけっこう広い。たとえば一番最初の短篇「音無しの空間(鉄道のバラッド)」は運行の止まった<音無しの空間>と呼ばれる区域を、引退した元車掌が溢れ出んばかりの情熱で管理を申し出、くるはずのない汽車を待ちながら、空間そのものに満ちる「思い出」が反響し立ち上がってくる様子を描いた幻想的な物語。『汽車は思考のごとくすばやく空間を遁走していた。』とはじまるイントロが印象的な短篇「車室にて」は動きの狂信者で車両のステップに足をかけるとエネルギーと力の輝きを帯びるようになるゴジェンバの一列車の恋を描いた恋愛(というかなんというか)鉄道短篇だ。

表題作にもなっている「動きの悪魔」は突如自分の意思と関係なくまるで逃亡するかのようにして「どこか」へ向けて無意識状態で移動を始め、気がついた時にはどこへ向かうのかもわからない列車にいるという不可思議な性向を背負っている男シゴンと、怪しげな車掌による思想対決のような物語である。症状が出てしまい、フランスからスペインへと向かう列車内で、シゴンへ向かって得体のしれない車掌が「鉄道というものは大したものだ。職務を果たし、力を発揮する価値がある。文明の要因! 諸国民と文化交流の軽やかな仲介者! 速度ですよ。あなた、速度と動き!」と熱烈に鉄道の素晴らしさを歌い上げる。

それに対してシゴンは軽々と反論を述べてみせるのだ。アメリカのエクスプレス・パシフィックという蒸気機関車は時速200キロは出る。さらに進展していけば、250や300も出るようになるだろう。そしてどれだけすさまじい速度を列車が出せるようになろうが、1ミリだって地球の領域から出ることはできないのだと。

「あなたたちの運行とはなんでしょう。有り得べき最高速度をもってしても、最も遠くへ拡がった路線においても、この大いなる動きに比して、最終的には結局地球上にいるしかないという事実に比べたら、せめてあなたがたが、一時間で地球を一周し、最終的に出発した地点に戻るような途轍もない列車を発明していたなら。あなたたちは地球に縛りつけられている」

いやー煽る煽る。この後もシゴンくんは得意気に列車の速度を自慢してきた車掌に対してこのように怒涛の勢いで煽り続け最後に──オチがつくわけだが、まあこの短篇のメインはシゴンくんと車掌の列車に対する思想バトル──それもシゴンくんが滔々と並べ立てる「この地球そのものと鉄道」を対比しその限界を指摘してみせるところにあるのだろう。

このように時に鉄道を地球の視点から眺めてみたり、ノスタルジックに鉄道路線を眺めてみたり、「突如出現し疾走する放浪列車」という形でホラーチックに仕立ててみせたり、弟の悲劇的な死以来「いかなるゴールにも耐えられなくなった」男が、ひたすら直線を逸脱せず循環せず進むことを夢見る鉄道短篇などなど一言で「鉄道怪奇譚」といってもそこに内包される物語は多様に広がっていくのだ。

肝心な列車の表現も多様である。列車それ自体を無機物としての、機能的な美しさをたたえあげる文章よりも『強力な関節を持つ蛇のような鋼鉄の車両のリボンは海岸沿いを矢の動きで疾駆し、リオン湾の広い弧を描いていた。』などのように、生物にたとえられた無機的なものと有機的なものが接続された表現が続くのも読みどころのひとつ。訳者あとがきを読むところでは、これはポーランド語の特性からくるもののようにも思えるが。

おわりに

さて、最後にはなるが本書が本国で出版されたのはなんと1919年のことで、ほとんど100年近い時を開けての翻訳となる。しかもステファン・グラビンスキという作家は本書以外には訳出された作品はなく、生誕100周年などで何か盛り上がっているわけでもない。僕も「面白かったがなんで今さら??」と思って最後の訳者あとがきを読んでいたら、訳者の芝田文乃さんが出版のあてもなく一篇ずつ訳し電子書籍として発表していたものに、国書刊行会の編集者氏が出版に向けて声をかける経緯があったようだ。

ようは偶然──というよりかは、芝田さんの働きがあってこうして手に取りやすい形で世に出ることになったわけで、最後に面白い物語を教えていただき/訳していただき、ありがとうございましたと感謝を述べたい。